分かっている人には今さら何?と思われるかもしれんけど、このタイトルの文言はルイス・ブニュエルの映画「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(1972)から引用した。とはいっても、ちょっと思いついたというだけで、そんなに深い関連性はない。
ただ、現代において、そして自分の身近な世界において、「特権」とはそもそも何なのだろうかと考えてみたかったので、引用してみただけなのである。
「特権」は、歴史的には「階級」に付随する属性であって、そうした伝統的な意味での「特権」は、フランス革命以来、近代的な国家においては廃止されてきたという事実は、もちろんぼくが言うまでもない。
だが、そうした歴史的進展よって「特権」は今の時代には消滅したのかというと、決してそんなことはない、とぼくは考えている。「特権」に甘んじる人間の精神(というか、精神の弱さ)は、この現代においても別な形で、しっかり自分の活動場所を見出しているのではないか。
人間は基本的に進歩などしないので、いくら時代が降っても、人間が過去に示した愚かさは単にその見え方が変わるだけで、別な所にしっかり温存さているとぼくは思っている。そんなだったら絶望的ではないですか!と言う学生もいる。そうかもしれないけど、仕方がないのである。
それでも進歩しよう、もっと世界を良くしようと思うことは大切だし、ぼくも協力する。そうでなければ、そもそも先生とかやっていられない。けれども、努力しても結果として進歩が見られないのは、しょうがないなあとため息する。「奮闘努力の甲斐もなく/今日も涙の日が暮れる」という、フーテンの寅さんの心境である。
けれども人間はしょせんその程度のもんだと思うから、あんまり絶望しすぎない方がいいと思う。そのことが分かるだけでも、まあいいではないか。
例えば学術雑誌などの「査読者」と言うのは、たまたま選ばれた人たちであって、もちろん「貴族」とか「ブルジョワジー」のような、生活のすべてにおいて特権的な階級というわけではない。お金がもらえるわけでもなく、表立ってエラソーにできるわけでもない。むしろ、学会発表や学会誌に掲載する論文の質を担保するために必要な役割だから、本当は面倒だしやりたくないけれど、お役目だから仕方なくやっている、という人が多い。
あるいは、新しい大学を設置したり、既存の大学に新たな学科や学部を設置したりするために、文部科学省に申請された書類を審査する専門委員会というものがある。この審査員は関連する大学の学長や学部長クラスの先生たちで、たいした報酬をもらうわけでもなく、忙しい業務の合間を縫ってわざわざ協力してくれている人たちである。これももちろん、特権階級とは程遠い。
それでもこうした世界においては、いわば「特権」の亡霊のようなものが、姿を現すことがあるのである。
どうしてそんなことが言えるかというと、ぼく自身がこれまで、いくつかの学会誌の査読委員会に出たり、それどころか委員長をしたり、あるいは文部科学省の大学設置審議会の専門委員をしたり、あろうことかその委員長をしたり、してきたからである。
たとえば学会の査読委員会というような所で気がつくのは、ふだんは謙虚な感じの先生が、突然エラソーな口調で話し始めることである。それはその人の人格の問題というより、査読者という立場に置かれると、読まされた論文について何か批判的な意見を述べなければ仕事しているように見えないから、そうしてしまうのだと思う。つまり、マジメだからつい「査読者」の役割を演じてしまうということである。
しかし、さらに一歩突っ込んで考えてみるなら、その先生は仕事を真面目に果たすためとはいえ、後輩の論文に厳しい意見を出すことが、やはり秘かに「愉しい」のであり、だからそうするだと思う。それがなぜ「愉しい」のかは難しい問題だけれど、ひとつには、匿名的だからだろう。
査読者はみずからのアイデンティティを示さないままに意見を言える。もちろん査読される論文の執筆者も、たいていの場合その氏名や所属は隠されているが、それは査読委員会に対して技術的に隠されているだけであって、本当は投稿の段階で知られている。だから査読者と被査読者との間には、圧倒的な非対称性があるのである。
投稿論文に対して査読者がいくら辛辣な批評をしようが、そのことを咎められることは稀である。辛辣な意見を言うことはむしろ、「ちゃんと仕事をしている」として、同僚の査読者たちからは評価すらされる。「そんなエラソーなこと言って、お前はどうなんだ?」などと同僚に突っ込む査読委員はいない。みんな同じ穴のムジナだからね。タヌキとして言うけど、これは悪口じゃないよ。
大学の設置委員会でもかつて、同じようなことを経験した。ある新設の大学で、主力の教員として予定されていた人が海外の大学から招かれ最初の一年間講義を担当できないことが分かり、集中講義で対処するので了承してほしいという願いが、委員会に回ってきたことがある。その時委員長だったぼくは、それはその教員が優秀ということだから別に構わないでしょう、と通すつもりで発言した。
すると委員のひとりが、初年度に主力の教員が講義できないというのは、文科省の掲げる単位の実質化という観点からいかがなものでしょうか、という疑義を述べたのである。ぼくは耳を疑った。なぜならその人は、以前休憩の時に喫煙室で、文科省が単位の実質化とか言って年間の講義日数とかうるさく言うから、こんなんでは教育なんてできませんよねー、とか雑談していた人だったからである。
ぼくは別に、そういう人を個人として責めたいとは思わない。フツーの人間は、そういう立場にたたされると、ついそういうことを口にしてしまうのだと思う。「特権」と言うにはあまりにメリットがない立場だが、それでも、ナイーブな大学の先生にとっては国の委員会に招聘されたりそこでの自分の発言が新たな大学の設置に影響を与えることが、「秘かに愉しい」のである。
京都大学のような大きな組織に長年いると、研究科長になったり大学の理事会などの役職に着いた途端、「え、あの先生が?」と驚くような振る舞いをし始める人がいる。そうしたことも、その人がそもそもそんな人だった、と失望するというより、現代化された「特権」のもたらす「秘かな愉しみ」に耐性がなかったために、「特権」の犠牲になってしまったのだろう、と思う。
こんなことを呟いても世の中になんの進歩ももたらさないことは分かっているのだけれど、「特権」の亡霊というものはある、という知識だけは、まだ「特権」の恩恵(あるいは被害)を受けていない若い人たちとも共有したいので、こういうことを書いてしまうのである。