IAMAS卒業生のハヤカワ君とオノデラ君のやっている「生きづらジオ」が再開したようだ。昨年の大晦日、ぼくをゲストとして呼んでくれたYouTubeの番組である。それで、久しぶりに聴いてみた。
ハヤカワ君が、調子が悪くて仕事する気力はないのに、何かの用で電気屋さんに行ったところ、そこの店員の対応が悪かったということについてクレームを言うことには気力が出るのはなぜか、ということが話題になっている。
何でもない話題のように聞こえるかもしれないけど、現代社会の「生きづらさ」が生まれるその根源に関わる、重要なトピックではないのだろうかと思った。
つまりハヤカワ君のように社会的に弱い立場(「メンヘラ、バツイチ、引きこもり、無職」)にいる人が、顧客という(少なくともその場においては)強い立場にある時、店員という(少なくともその場においては)弱い立場にいる人に対して、苦情が言えるはずだと感じてしまうのは、その背後に「やっていいんだよ」という〈社会の声〉があるからではないかと思う。
このように言うのは、ハヤカワ君を責める意図ではまったくない。彼は番組中の発言でも分かるように、その時にはついクレーマーになってしまったけど、そのことをちゃんと反省したり考えたりできる人である。それに対して私たちのほとんどは、そうした反省はなかなかできない。
誰がどうこうと言うことではなく、考えてみたいのは、私たちが何かにクレームを言いたい気分になった時、それを「やっていいんだよ」と後押ししてくれるこの〈社会の声〉の主とは、いったい何者なのか? ということである。その〈声〉がなければ、私たちは誰かに気軽にクレームを言ったり、SNSで特定の人をみんなでdisったりすることは、なかなかできないはずなのである。
対話相手のオノデラ君は、よく似た自分の経験について言及している。スーパーでレジに並んでいる時、隣の列はスイスイ進むのに、自分の列はなかなか進まない(いわゆる「マーフィーの法則」というやつだ)。見てみると、自分の列のレジのおばさんの処理が遅いのである。新米で慣れてないから遅いというより、その人はそもそもそういう作業が遅いらしい。
そうした時に「オイ、スーパーのレジとはいえプロなんだから、もっと早くやったらどうなんだ? おかげでこっちは時間を無駄にされてるんだゾ!」みたいなクレームをつけるべきかどうか、ということである。
現代の社会では、その種のことを「やっていいんだよ」という声が、けっこう広範囲に、背中を後押ししてくれるような気がする。そういう場面で何もしないで帰ると、今度は家族や友達から「何で文句言わなかったのよ?」と責められたりするからである。
もちろんあまりに不当な扱いや、健康や生命に関わる不手際に対しては、抗議をするのは当然である。けれどもそうしたケースは稀で、現代の私たちは自分に直接関わりがないことでも、些細なことでも、あるいは他に考えようのあることでも、とにかくクレームを付ける対象はないかと探しているようなところがある。ネットの世界は特にそうだ。
政治家が「失言」したり有名人が何か「アウト」なことを言ってしまうのも、こうした「やっていいんだよ」という社会の〈声〉に後押しされているように思うし、またそうした発言が出た瞬間、よってたかって非難するのも、やはり社会の〈声〉に後押しされているのだと思う。
批判的になること自体はもちろん悪いことではない。でも批判にはコストもかかるし、自分を晒す決意もいる。「やっていいんだよ」という社会の〈声〉は、そうしたコストなし、決意なしに、みんなで他人を吊し上げてもいいんだよ、と囁くのである。
こうした社会の〈声〉に従属するのを自分の良心と勘違いして、自分はいいことをしてるのだと確信してしまう傾向は、年齢や経験にも、知識や教養にも、それほど関係がないように思える。政治家でも著名人でも、何かの専門家でも、大学教授でも、ダメな人はダメなのである。
そう考えると絶望的にも思えるのだが、この「やっていいんだよ」という囁きに対して、「お前は誰だ?!」と振り返ることはできるし、振り返る人もいる。明白な言葉にできなくても、これは何かおかしい、と感じる力である。それは世界に対して根本的な問いを立てることの面白さであり、それが「生きづらさ」に対処する唯一の道だと考える。そうした振り返りをプロモートするのが、ぼくが話したり書いたりしている目的ではないかと思う。