まもなく、YouTubeによる動画配信を始める予定です。内容はとりあえず、ぼくが近くの展覧会やアーティストを訪ねて気楽に話をする、というようなことからやってみることにした。IAMAS卒業生で京都芸術大学に勤める山城大督さんたちに協力してもらい、第1回目の映像を寺町の「ギャルリー宮脇」で撮りました。展示されていた宮川隆さんの作品について説明し、ギャルリーの宮脇豊さんとの対談的なやりとりも収録しました。2回目以降の内容として、先週は信楽の陶芸の森にも赴き、そこで滞在制作をしているフランス拠点のアーティスト湊茉莉さんとも話をしました。
番組全体のタイトルをどうしますか? と聞かれたので「であいもん美学」としました。「であいもん」というのは、全然違う要素が出会って、そのどちらにもない良さが生まれる、というような意味です。たとえば京都のいわゆるおばんざいに「ニシン茄子」と言うのがありますが、そういうものですね(自分の好物だから例に出しただけなのだが)。
私たちはみんな、一個人としての能力やアイデアには限界がある。ぼくも含め、多くの人はひとりだけではたいしたことはできません。誰かと出会うことによって、一個人の内部にはなかった力が出てくる(こともある)。そういう期待を「であいもん」という言葉に込めました。もちろん失敗することもあるだろうが、まあそれはそれで。
でも始めたばかりなので、まだ暗中模索です。山城君たちは素晴らしい編集をかけてくれるのだろうが、撮影時の自分の話し方をいま反省してみたところ、そうならないようにと思ったにもかかわらず、いざカメラを向けられキューを出されると、どこかテレビの美術番組の司会者のような口調になってしまう。当たり障りのない、時間内に収まるシャベリになってしまうのです。ああ、イヤだなあと思った。それくらい、マスメディアの定型に洗脳されてきたということですね。
だがもちろんテレビとは違うし、ぼくもタレントではないのだから、結果としてはスキだらけの映像になるのではないかと思う。けれどもその「スキ」がいいのであって、そのスキの中にしか希望はないと思うのです。なぜかというと、人が時として見せる「スキ」の中には、語っている対象に対してその人自身がとっている基本的態度がこぼれて見えるからです。誤解を恐れずに言えば「失言」みたいなものですね。「失言」こそが、その人が本当はどんな人かということを語るのです。
逆に言うなら、テレビ的に作り込まれた演出の中でタレントがそつなく語ること、あるいはタレント化した学者や政治家が語ることは、その内容が正しいとか間違っているとか以前に、語っている本人と彼が語っている対象との関係が遠いのです。どんなに雄弁に、深刻に、感動的に、説得的に語っていようとも、その人にとって語る内容は結局「他人事」でしかないのです。
どんな対象であれ問題であれ、それを自分のこととして語ろうとすると、私たちは必然的に吃り、失敗し、言葉に詰まり、沈黙したりします。そうした言説の「破れ」の中に、言語的な語りの外部というか、身体というか、予測も制御もできないリアルなものの介入があるのです。それをそのまま見せられる所に、マスメディアではないネットの良さがあるのだと思います。
そういう意識で作っていこうと思うので、この「であいもん美学」、公開されたらご一覧ください。配信準備が整い次第、このFacebookやTwitterで告知する予定です。