「でっちようかん」という滋賀県のお菓子がある。若狭など他の地域にも同名のお菓子があるが、滋賀県の「でっちようかん」は竹の皮に包んだ平べったい羊羹である。濃厚で洗練された京都の羊羹に比べると、味は素朴で甘味も薄い。
名前の由来は、半人前の丁稚さんでも作れる簡単な羊羹という説や、近江の商家で働いていた丁稚さんが里帰りから戻る時、旦那さんや番頭さんへお土産として持たせたという説がある。いずれにせよ、プロの菓子職人ではなく素人による、あるいは家庭でも作れるような羊羹ということだろう。
「楽市楽座」など織田信長による商業整備によって発展した近江地方は、江戸時代中期には幕府の天領となり、江戸や東北をはじめ商人たちは広い範囲に渡って活躍した。そうした近江商人の成功をもたらした経営哲学として有名なのが、「三方よし」という考え方である。詳しくは「三方よしを世界にひろめる会」(http://sanpoyoshi.net/)というのがあるので、参照されたい。
取引の理想的なあり方として「win-win」ということが言われる。売り手と買い手が共にトクをするような関係ということである。そうなればまことに結構なことではあるが、現実にはそんなに上手くはいかない。トクしたと思っていても、実はそう思わされているだけなのかもしれず、本当はもっと利益を得られたはずではなかったか、と疑い出すとキリがない。「win-win」とは(英語に弱い日本人にとっては特に)そうした疑惑を丸め込むためのマジナイ語ではないのか?(というような新たな疑いも起こる。)
「win-win」が二者関係であるのに対し、「三方よし」は三者関係である。「三方」とは、売り手、買い手、世間のことだ。売り手が儲かり、買い手が満足し、世間(社会)の幸せも増進される、ということである。これも言葉だけを聞くと、それはまことに結構なことだが現実にはなかなか難しいでしょう、と思われるかもしれない。しかし、どうしてそれが可能なのかということは、ちゃんと考えてみれば分かるのである。
「三方よし」というのはまず、売り手がひたすら今の利益を追求するのではなく、算盤勘定の上では当面の利益が少なくなっても、品質の良い商品を提供して買い手に満足してもらい、信用を確立し将来的に顧客を増やしてゆくことで、やがては自己利益もまた拡大するという戦略である。この時に重要なのは、買い手に良い商品を提供する理由は単なる利他主義のためではなく、最終的にはそれが自己利益に返ってくるという点である。
そして、そのようにして利益が貯まり余裕ができたら、そのお金を「世間」のために使う。つまり橋を作ったり学校を建てたりといった、公共インフラに投資するのである。これも、たんなる善意とか博愛主義と考えるべきではないし、富裕な者の社会的責任と考えるべきでもない。道路を整備し橋を作って交通の便が良くなれば、顧客はさらに増えて利益は上がる。学校で知識や技能を習得した子供たちが商売に参画してくれれば、生産性は向上し新商品も開発できて、やはり利益は増える。つまりインフラへの投資は、結局は回り回って自己利益へと返ってくるのである。
「win-win」がひたすら利益追求に向かうのに対して、「三方よし」は利益だけでなく社会への配慮や道義性を含んでいるから重要だという理解は、間違っているわけではないけれども、それだけでは不十分である。なぜならそれだと、「三方よし」は古き良き時代の思想であり、商売には利益だけではなく道徳も大切なんだよ、というように教訓的に解釈されてしまうからだ。教訓では世界は変わらない。取引のモデルなんだから、どちらも自己利益の拡大を合理的に目指している点では同じなのである。違いはむしろ、「合理性」そのものの理解の深さにある。
「win-win」が成り立つのは、社会がある程度安定し、十分な需要が存在して、経済が成長しつつあるような局面に限られる。だから「win-win」を成立させる合理性は限定されたものである。「win-win」関係が将来も維持されるためには何をすべきかという、長い時間的スケールを視野に入れた合理性ではない。現在の日本のように需要が不足しているデフレーションの局面では、利益追求は結局はパイの取り合い(リストラや雇用の非正規化といった経費削減)になってしまう。「合理性」と言っても、相手にもトクしたように思い込ませるトリックの合理性、「今だけ金だけ自分だけ」の合理性に堕してしまうのである。
それに対して「三方よし」の合理性とは、「win-win」のような関係が安定して持続するような、環境そのものを作り出し維持するには何をすべきか、そのための合理的選択をすることである。公共的世界、インフラ、教育や文化といった、「今」は「金」を「自分」にとって直接生み出さないものに対しても豊富な投資をしておき、それによって将来的な自己利益を、長期にわたって確保するという合理性である。古き良き時代の道徳的な商人哲学ではなくて、まさに現代の私たちが、その合理的思考を徹底させさえすれば、到達せざるをえない結論である。「三方よし」のような考え方は、個々の民間企業が学ぶべき指針というよりも、国民経済全体の方向付けをする政府が、何よりも学ばなければならない合理的思考なのである。