谷崎潤一郎の作品を読んでいると、今日私たちを取り巻いている文化の、ある意味「源流」とも思えるもの、とりわけ愛欲や性に関する先駆的な表現が、数多く見出せることは確かである。
だからといって、谷崎を単に現代の性的文化の「先駆者」として評価するなんて、ぼくには思いもよらない。
そもそも過去の人々を、あんな時代においてすでに現代に通じるものを掴んでいた、などと寝ぼけた言辞で評価する、現代人の愚かな傲慢さがぼくには耐えられないのである。
過去を舐めるな、と言いたい。
そして、私たちだってまもなく過去になることを忘れるな、と。
現在、スポーツ選手の演技を盗撮して、それを性的な興味からネットに掲載する、というようなことが問題になっている。
もちろん個人的なレベルにおいては、気持ちが悪い、道徳的に許容し難いと感じる人も多いだろうし、もしも自分の息子がそんなことをしていたら、お前いい加減にしろよと説教するようなことではある。
だが同時にこれは、個人的なレベルを超えた事柄でもあるのだ。つまり、そんなことをする個人を責めるだけでは、絶対に解決しない問題だということである。
1990年代以降、普通の家庭の若い女子が自分の下着を販売したり、売春やその他の性的サービスを商品化する、というような風潮が一般化した。
そうしたことは多くの場合、ジャーナリスティックに取り扱われ、「時代」のせいにされたり、個人の生き様に還元されたりしてきた。「時代」なんて言っても何の説明にもならないのに、「今はこうだから」というようなことで人々は納得させられてきた。
けれども大局的には、こうしたことは個人の意識とか道徳観といったレベルを超えた現象なのである。つまりそれは、同時に進行してきた経済分野における規制緩和やグローバリズムといった傾向と、連動して起こってきた現象なのである。どこであれまだ手のついていない自然をすべてリソースとみなし、その活用だけを追求してきた。資本主義というよりは、単なる乱開発である。
つまり少女たちの身体は、ちょうど野生動物や熱帯雨林が乱開発されるのと全く同じように、過剰に開発され商品化され、一般的な消費の対象となって日常化してきたということである。スポーツ選手の性的盗撮というような事態は、その延長線上に起こっている現象である。
それでは昔の人々は、そうした変態的な関心を持たずもっと品行方正であったのかというと、もちろんそんなことはない。そんなこと、たとえば谷崎文学を見れば一目瞭然でしょ。
とはいっても、今は昔と同じではない。昔だっておそらく、女子の体操選手の肢体に性的に欲情する人はいたはずである。しかしそれは広範囲に商品開発されてはおらず、多かれ少なかれ、あるいはよくも悪くも、「禁断」の領域に閉じ込められていた。禁断に踏み込むには、それなりに覚悟もいるし、危険も承知でなければならない。
それはちょうど、昔だって特定の地域における野生動物と接触し、危険なウィルスに感染して病気になる人はいたことはいたのだが、それはグローバルに広がらなかったので、あまり大きな問題にはならなかった、ということとパラレルである。今は野生動物との接触が拡大し、人々の移動も広範囲になったので、昔は特定地域に限定されていた感染症が世界的な問題となった。
たしかに個人的なレベルでは、スポーツ女子の肢体に性的に欲情する人たちは道徳的に責められるべきなのかもしれないが、大局的には、それだけでは絶対に問題は解消しない。なぜならそうした傾向は、この同じ社会に住んでいる限り、盗撮などしない大多数の人々も共有しているものだからだ。すべて個人の道徳感や自己責任の問題に還元している限り、いつまでたっても事態は変わらない。
自然であれ性的身体であれ、それらの深部に踏み込むためには、それなりの覚悟がいる。その覚悟のない消費者にまで、商品としてそれらを提供するための乱開発を、私たちが黙認しているという点が問題なのである。