ミシェル・フーコーはペドフィル(小児性愛者)だったのだろうか?
マルチン・ハイデガーは、やっぱりナチだったのだろうか?
他にもいろいろあるけど、著名な思想家に関するそうした嫌疑は、単純に肯定も否定もできず、単純に肯定も否定もできないということが、考えるきっかけを与えてくれる。フーコーが典型的なペドフィルではなく、ハイデガーが単純にナチでなかったことは、初めから明らかである。けれども、そうした問いを無意味として退けるのも、間違っている。むしろそれらの問いを保持すること、答えることを急がず、問いを保ち続けること自体が、私たちに思考と対話の場を提供している、と考えるべきではないだろうか?
思想家に限らず、これまで当然のようにリスペクトされてきた過去の偉人たちに関する糾弾は、後をたたない。大抵は、人種差別、女性蔑視、植民地主義、優生思想等々、今日だったら発言と同時に「アウト」とみなされて、ネットで大炎上するような事柄である。生きている人なら弁明の機会もあるが、死んでしまった人たちは言われっぱなしであり、理不尽なことではある。異なった時代環境にいたのに、現代人と同じように批判に晒されるのは、彼らが現代にも影響力を及ぼしているからである。そうした過去の偉人たちを糾弾する人々は、彼ら自身を非難するというよりも、彼らを尊敬する同時代人たちを攻撃するために言っているのだろう。
まあどうでもいいのだけど、ぼくが唯一気になる点は、そうした先人たちがどこかでポリティカル・コレクトネス(政治的適切さ)に欠けていたことを発見することによって、あたかも現代の私たちが何か「いいことをした」かのように喜んでいるようにみえることである。フーコーはチュニジアでアラブ人の少年を買ったかもしれないし、ハイデガーもある時期ナチス思想にシンパシーを持っていたんだろうが、そうしたことを指摘して、私たちは彼らの思想に残っていた「バグ」を除去して、それらをより(「適切」で「安全」なものへと)進歩させてあげたことになるのだろうか?
そんなことは絶対にないよね。過去の人々はヤバイことを臆面もなく言ったりしたりしていたのは確かだし、それは取り返しがつかない。調査や研究をしてそれを指摘すること自体は別にかまわないと思うのだが、そのことによって私たちの方が優位に立っているかのように思い込むとしたら、それはおめでたい幻想としか言いようがない。私たちが過去のアラ探しをして悦にいっているのは単に、現代の私たちが過去の偉人たちに比べて、もうどうしようもないほど「小さい」存在であることを示しているだけなのである。それが、いいとか悪いとかいうことではない。ただ私たちは決定的に「小さい」ことだけは確かなのである。だからといって、もっと大きい人間になれ!と言っても無理なのだけどね。時代が違うのだから。
それでもなお、自分たちが過去の人々に比べて途方もなく「小さい」存在であることを知ることは、歴史的進歩の先端にいるのだから我々はいかなる過去も上から目線で見渡せると信じる愚かな自己欺瞞よりは、いくぶんかマシなのではないかと思うのである。