この前の記事「学校は悪者でいい」の最後のパラグラフを書いていたら何だかだんだん腹が立ってきた(笑)ので、現代日本の教育「改革」(と呼ばれているもの)について、もう少し補足したい。言うべきことはいろいろあるのだけど、さっきは国語について述べたので、今度は英語について考えてみたい。
英語による情報発信や、コミニュケーションを重視した英語教育を推進するといった意見は、今日政治的にたいへん大きな力を持っているようである。茂木敏充は英語を「第二公用語」にしたいとか言ったそうだ。この人は多くの点で日本の外務大臣としての資質に欠けることは明白だが、仮に他のことがなかったとしても、この発言一つだけでも失格である。とはいえ政治家がこんな発言をするのは、単にバカだからではなくて、その意見が支持されるだろうという判断があるからである。
実際、小学校ではすでに英語は五年生から必修科目になっている。就職する若者たちは自分のTOEICのスコアを気にするようになり、就職してからも英語能力は人事評価に関わると考えられている。様々な事業はその企画内容に国際化(主として英語対応)を盛り込まないと採択されにくくなっている。つまり「英語化」は一見、現代日本社会の必然的な流れであるかのようにみえる。それらを前提に、茂木発言のようなことが起こるのである。
だがそうした発言はまさに前記事の最後に論じた、制度と現実との区別がつかなくなってしまった、或いはそもそも現実が見えなくなるほどに退化してしまった精神の一例なのである。これは多方面に渡る深刻な問題なのだが、ここでは英語教育のことに絞って考えてみよう。
まず、教科というのは便宜上「英語」「国語」「理科」などと区別されているだけであって、現実にはそれぞれが対等のものとして独立しているわけではない。だから、どれかを少し削ってその代わりに他のどれかを強化する、なんて単純なことはできない。そうしたことは制度のラベルだけを見ているからできるように見えるだけで、ただの錯覚である。そういう錯覚に基づいて政治判断をすることが、制度と現実の区別がつかないということである。
「数学」も「理科」も「社会」も、教科書はすべて日本語で書かれている。だから「国語」は、本当はすべてに共通する最も基底的な教科なのである。日本語の理解力が不完全だと、どんな教科も十分に理解することができない。英語だって例外ではない。日本語を母語とする人にとって、日本語が分からなければ英語が分かるわけがない。英語と日本語とは二つの別々のものとして存在しているのではないからだ。何語であるか以前に、まず言語能力というのが全ての知的活動の基本である。そして日本の場合、ほとんどの子供にとって母語である日本語が中心となるのは当然のことなのだ。
ぼくの周囲には外国語に堪能な人、外国生活が長く日本語以外の言語を自由に使いこなす人たちが少なからずいる。そうした人たちを見ていると、外国語を本当に深く理解している人ほど、母語である日本語を大切にしなければならないという意識が強い。外国語の出来る人ほど、自分の日本語力の不足を嘆くのを聞く。母語で鍛えられた正確な言語能力が、自分の外国語能力の基礎になることを実感するからだと思う。それが、母語と外国語との間の現実的な関係である。
それに対して外国語について表面的にしか考えていない人は、自分は英語は得意ではないが日本語は母語なのだから完璧だといった幻想に陥りやすい。だから国語教育を軽んじる結果になる。実はこの点が、最も深刻な問題なのである。母語というのは理解しなくても慣れ親しんでいるために、自分の周りに自明性のバリアを作り出してしまう。自分がいかに日本語を理解していないかということ、つまり自分がいかにバカかということは、母語の自明性の中では知覚できないのである。それでは知的に成長するのは無理である。外国語を学ぶことの主たる利点は、この自明性を破壊することにある。
誤解を避けるために付け加えると、これは日本語しかできない人には知的に限界があると言いたいわけでは決してない。過去の優れた学者や作家の中にも、外国語は不得意でありながら卓越した言語理解に到達した人々は夥しく存在する。それは、彼らが日本語の中にさまざまに異なった思考や感情の流れを読み取るように、いわば日本語の内部に外国語を聴き取るように、みずからを鍛えてきたからである。どんな言語も、ある程度以上の深みに達すると、そこには外国語や過去の言語に由来する様々な要素が見えてくる。それによっても母語の自明性から抜けることは十分可能なのである。