哲学というのは、その古代ギリシア的な定義を辿るなら、「アルケー(始源、根源)」の探究ということになります。ソクラテス以前のギリシア哲学ファンだったマルチン・ハイデガーも、芸術作品の「根源」あるいは「はじまり」について考えました。こういう言い方をすると、哲学って何だかとても深遠なことのように聞こえるかもしれませんが、実はそうではないのです。「深遠さ」とは、19世紀ロマン主義が哲学をブランド化するために作り出した幻想です。「アルケー」の探究というのは、今目の前に見えている世の中、今自分が肌身で感じている現実が、そもそもどこから来ているのか? と考えることで、むしろ非常に切実な事柄なのです。
例えば「イジメ」。子供たちの世界に拡がっている「イジメ」は時に、自殺など悲惨な結果をもたらします。そうした現実に直面すると、どうしたらそれを防ぐことができるだろうか、と私たちは考えます。もちろん個々の問題に対しては、緊急の個別的対処が必要になることは言うまでもありませんが、それと共に、そもそも「イジメ」などという現象が何処から生じてくるのか? と考えることも必要なのです。そこで重要なのはこの「そもそも」が、必ずしもエビデンスに基づいた因果関係を遡及することではないことです。なぜなら、エビデンスや事実に基づいた思考では探究することのできない論理が、現実を駆動しているからです。
イジメの「始源(アルケー)」は何かというと、それは子供の問題ではなく、大人の問題です。子供たち自身は、いつの時代も、歴史や社会の状況から半ば超越した、自然に属する存在です。だからこそ子供たちの存在は尊いのです。安易に「今どきの子供は‥‥」などと一般化するのは間違いです。子供の問題は、大人の問題に由来するのであり、教室にイジメがあるとすれば、それは職員室にイジメがあるからであり、会社や役所にイジメがあるからなのです。しかし大人は自分自身の抑圧的状況を誤魔化します。大人は自分たちの弱さを子供に対して隠します。その結果それが子供たちの世界に、より直裁な仕方で反映されてしまうのです。
あるいは「貧困」。これは現代日本において最も深刻な問題の一つですが、最も深刻なのは貧困そのものではありません。問題は貧困の「アルケー」、つまりそれが、そもそも何によってもたらされているかということです。現代日本における貧困の原因は、長年にわたる国家の経済政策の失敗、あるいは半ば意図的な偏向にあります。貧困は必然的なものでもなければ、ましてや「自己責任」などではありません。貧困という末端の現象だけを捉えて問題化したり、貧しい子供たちに食事を提供したりすることは、もちろんそれ自体は良いことなのですが、政治家がそんなことを売名行為に利用するのは最低です。政治家は貧困の根源を断つために働かなくてはなりません。単なる現象としての貧困を対症療法的に扱っているだけでは、結局その責任は貧しくなってしまった末端の人々にあると言っているのと同じことだからです。
さらには、分断されてしまった末端の人々が互いにいがみ合うという一般的な状況があります。SNSの世界に広がっている殺伐とした雰囲気、互いに誹謗中傷したり、特定の人をみんなで攻撃したり、何でもないことで「炎上」したりするのは、本人たちはそれぞれ衝動に駆られて、自分がやりたいからやっているように感じているかもしれませんが、本当は弱いもの同士で争い合って連帯できないように、構造的に誘導されているのです。そうした状況を作り出している本当の原因、私たちの世界の生きづらさの「アルケー」はまったく別なところにあり、それを見極めるためには抽象的な思考(本来の哲学)の力を使う必要がありますが、そうした抽象的思考への信頼も破壊されており、私たちは身近な他人を悪者として攻撃するように仕向けられています。つまり、責任は常に「末端」に押し付けられ、問題の根源への遡及が阻まれているのです。しかも私たちはこの状況自体に慣らされ、それは動かせない現実だと信じ込まされている。
「奴隷」というのは、こうした境遇を言い表す言葉だと思います。この状況を根本的に捉えるためにこそ、現象をそのアルケーへと遡及する抽象的な思考が必要なのです。