この問題は続いているし自分も辞職しない限り関わりは続くので、そしていろんな場所で意見を聞かれたりするので、ここでは正直なところを書いておきたい。このブログは公開ではあるけれど、個人的な活動なので、ぼくが美学会の会長であるとか、日本学術会議の哲学委員長であるとか、そういう立場からの公式見解では全くないのです‥‥と断りつつ、しゃべってる人間は同じなのだから、そんなキレイに切り分けられるもんではないのですけどね。
さて日本学術会議のことなのですが、政府でもそのあり方が検討され、同時に学術会議内部でも、自主的に組織や活動のより良いあり方を模索する動きがあって、ぼくも意見を求められたりしてきたのですが、基本的に言うと、ぼくはそんなことを今慌ててする必要はまったくないと考えているのです。組織に問題がないと思っているわけではない。問題はあります。でもその程度のことは、どんな組織にもある。この間、学術会議内部のニューズレターみたいなのに原稿を頼まれ、学術会議は新参者のぼくから見るとよく分からないシキタリみたいなものがあり、まるで「大奥」みたいだと書きました。「大奥」ほどの影響力は国政に対してないですけどね。
けれどもそれは批判ではなくて、こんな程度の組織の旧弊は当面放っておいても大事はないでしょ、という意味で書いた。ぼくの考えでは、今回のいわゆる「日本学術会議問題」と言うのはあくまで任命拒否の理由を明示しないことに尽きるのであって、菅義偉政権は社会常識として異常なことをしたのだから、その理由をあくまで追求すべきというだけのことなのです。専門家集団が推薦した人事を形式的な任命者が任命するというのは、社会的にまったく普通の手続きです。それを一部拒否するというのは、非常識という一語に尽きます。学問の自由の侵害とか、関係がないとは思わないが、そういう理念的な議論に深入りすると、相手の思うツボにハマるのではないかと感じる。いや、実際ハマってしまって、学術会議のあり方そのものの検討という議論に巻き込まれてしまっていますが。
問題は、やはり順番ということなのです。この日本という国が直面している様々な課題の大きさから判断して、日本学術会議問題なんて、当事者のぼくが言うのも変だが、どうでもいいでしょ、ということです。どうでもいいというのは、改革は必要かもしれないが、当分後回しにしたって、一般国民にとっては大差ないということです。こんなことをさも大ごとのようにマスコミで報道するのは、いかにもバランスが悪い。それよりも、日本の教育研究に関する基本的な政策のあり方とか、災害や経済発展のための土木インフラの整備、財政についての基本的方針、日本経済の底力である中小企業や農業をどのようにグローバル資本の脅威から護るか、そしてこの四半世紀に破壊されてきた日本という共同体をどうやって立て直すかといった問題がはるかに重要であり、それらに関する報道を第一にすべきです。それを隠すために「日本学術会議問題」みたいなことがさも大ごとであるかのように取り上げらるのは、異常だと思います。
日本学術会議というのは、別に日本の学術研究を代表する組織だとは思わないのですが、ぼくの知っている会員の人たちは、それぞれの分野で業績を上げた優秀な研究者が多いと思います。もっともぼくのように、たいした業績もなく学術的に優秀でない人もいますが。それはともかく、学者というのは基本的にマジメな人たちなので、「お前たちの組織には問題があるゾ」と指摘されたら、たしかに問題はあるなと正直に認め、それを改善しようと自主的に動いたりするのです。このマジメさが、政権によっていいように利用されているのではないかと感じているのです。