「ファルマコン」というのは、現在ぼくが勤務している京都大学こころの未来研究センターにおいてこの3年間続けてきた「現代社会における〈毒〉の重要性」という研究プロジェクトの、中心的なキーワードのひとつである。それは英語の”pharmacy”などの語源となる、「毒」と「薬」とを同時に意味する概念である。その他に、自らが犠牲になることで共同体を救う「生贄」と言うような意味もあるらしい。
「ファルマコン」は古代的な概念である。「古代」というとはるか昔の、とっくに乗り越えられた一時代だと思う人も多いかもしれないが、決してそんなことはない。たぶん火星人(何星人でもいいのだが)から見ると、地球人類なんて、古代からそんなに変わってない、というふうに見えるのではないだろうか。ぼくは、それでいいと思っている。そもそも、時間が経てば人は進歩せねばならないなんて、神様からも、他の誰からも、一度も要求された試しはないのだからね。
古代人の思考は私たちとは異なり、近代国家のように稠密に作れらた社会システムによって統制されてはいない。ということは、よく言えば自由だが、別な言い方をすれば、大変に不安定である。明日をも知れない現実に生きているので、古代世界の哲学は、現代の私たちよりもはるかに、永遠な概念・理念を強烈に志向する。そりゃそうだよね。「ファルマコン」も、元々はそういう概念のひとつだったとぼくは思う。
そうした古代的な概念を、そのまま現代に持ってくると、魅力的ではあるけれど、必ずしも有効に機能しないという面がある。概念それ自身が完全すぎて、何でも言えてしまうように思えるからである。「ファルマコン」もそうだ。「毒」と「薬」が紙一重なんて、経験的には当たり前である。どんなによく効く風邪薬だって、服用量を間違えれば、危険な毒薬にもなる。そんなことなら、わざわざ「ファルマコン」なんて持ち出す必要はないのである。
ではどうして「ファルマコン」なんて言っているのか? 「ファルマコン」は、「毒」的なものと「薬」的なものが、対立しているのではなく、むしろ連続しているという前提に立って考えるためのキーワードである。逆の効果をもたらすものは対立しているという、観念的な二元論から自由になるための概念だ。では今日の世界で、そうした二元論はどんな姿をとっ現れているのか。昨日、美術展「ファルマコン 連鎖/反応」の会場において開催された「現代社会における〈毒〉の重要性」2020年度シンポジウムでは、その話をした。
「リスク」「健康被害」「安全安心」、あるいは「生産性」「費用対効果」といった言葉、さらには攻撃目標としての「既得権益」や「無駄」といった概念、これらはすべて、現代における観念的な二元論が現出している徴しだとぼくは考えている。それらは政治的なプロパガンダとして利用され社会を動かすけれども、現実には全く即していない、観念的な言葉なのである。このことを、「現代社会における〈毒〉の重要性」プロジェクトの研究報告である『ポワゾン・ルージュ(Poison Rouge)』の2020年号において論じるつもりである。
こうした問題意識を背景とする美術展「ファルマコン 連鎖/反応」は、今月12月25日まで、大徳寺近くの「アトリエみつしま」において開催中である。感染症対策も万全にした上で、この時期にあえて開催している展覧会なので、あと残り一週間となってしまったが、お近くの方はぜひご観覧いただければと思う。
http://mrexhibition.net/pharmakon/