「生きづらジオ」という番組に出演する。
といってもこれは地上波のテレビではなく、インターネットラジオである。ぼくが2000年から2006年まで勤務していたIAMAS(岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー/情報科学芸術大学院大学)の卒業生である早川貴泰さんと小野寺啓さんが、今年の春から始めたプロジェクトである。まだ始まって9ヶ月だがすでに69回の配信がされており、明後日の番組はちょうど第70回にあたる。
このラジオは毎回、早川さんの「ぼくはメンヘラ・バツイチ・ひきこもり・無職です」という自己紹介から始まる。こんな自己紹介をされたら、何も知らない人はどう対応していいのか分からなくなるかもしれない。
しかし、現代では普通ネガティブな属性とされている「メンヘラ・バツイチ・ひきこもり・無職」をこう立て続けに4つ並べられたら、かえって何というか、ある種爽やかな響きも生まれているのではないだろうか。この属性のいずれも爽やかさとは程遠いが、当事者が毎回それらを列挙できる点がである。対話では実際、早川さんは提示される様々な話題について、率直で知的なコメントを返しており、それらの属性をひきずったような発言はしない。
公開のセラピー(心理療法)みたいなものだと言う人もいるが、セラピーはふつう公開ではない。クライアントは自分の話すことの秘密が守られるという前提で話し、「護られている」ことが、真実を語る条件になっている。現代では一般社会でも個人情報は厳格に管理され、私たちは他人のプライベートな生活や悩みの領域に立ち入ることを極度に警戒し、恐れている。
けれどもよく考えてみると、それは他人を傷つけるのを恐れているというより、自分がそのことで非難されたり告発されたりすることを恐れているのである。つまり他人のプライバシーを尊重するなどとキレイ事を言っている現代社会の正体とは、本当は他人のことを考えているのではなく、誰もが結局自分の都合しか考えていない社会、そういうことなのだ。
この世界には、生きづらい人とそうでない恵まれた人がおり、恵まれた人は生きづらい人を助けてあげなければならないなんて、ぼくは決して思わない。人間は生きる限り生きづらいはずであり、「生きづらい」ことと「生きている」こととはほとんど同義であると思う。違いは、「生きづらいこと=生きていること」を、言葉にし共有するかどうかということだけである。
これ以上書くとネタバレになりそうなので、あとはお聴きください。大晦日の晩に配信される予定である。