“Messy”というのは、とっ散らかってどうしようもない、できればスッキリ片付けたいけど、そんなにうまくいかないよな! というような感じの言葉である。「スッキリいかない」というのが、考えてみれば、この世に生きるということの、根本的あり様ではないだろうか。とはいえ、あきらめているだけでは仕方がない。どうしようもない状況にあえてどうにか対処しないといけないのだが、その唯一の方法は何かと言えば、それは「順番を決める」ということである。
散らかった大量の持ち物を処分したい、「断捨離」をしたいと思う人は、思い出の品をひとつひとつ吟味していたのでは、いつまでたっても整理はできない。そんなことをしていたら、それぞれのモノに対する記憶が次から次からよみがえってくるだけだからだ。もちろん個々のモノに順番なんてつけられない。”Messy”とは異質なものが混在している状態だから、合理的に比較対象して優先順位を付けるなんてできないのである。でも、順番なんて付けられないものにあえて順番を付ける、というところから始めなければならないのである。
2016年に亡くなったぼくの母は、その数年前まではいたって健康にみえた。けれども白内障の手術を受けることになり、血液検査をしたら糖尿病だと診断された。まず血糖値を下げないと眼の手術もできないと言われたので、その治療をすることになった。元々マジメな人だったので、医者の言いつけをまもり、好きだった肉類も控え、食事の量も減らした。それで白内障の手術は受けられたが、みるみる筋力は落ち、普通に歩くことも大義になってきた。
出生時に障害があって手術していた股関節がまず不調になり、それを人工関節に置き換えた。70歳後半になっての手術なので大変ではあったが、とりあえず歩く力は回復した。だが糖尿やその他の内科的治療は続き、ある時検査の結果、内臓の一部に悪性腫瘍があると宣告された。内科医は手術で取り除くべきだと言う。だが怖がりの母は手術はできるだけ受けたくない。それで「その腫瘍が悪化して生命の危険になる時期はいつ頃ですか?」とぼくは聞いてみた。「そうですね、断定は難しいが、早くて90歳代後半でしょうか。」
正気か!? とぼくは思った。もちろん、その内科医は職業的な見解に基づいて、危険因子はできるだけ早く取り除く方がいい、とアドバイスしたにすぎない。それは分かる。しかし人間が人生の終わりを迎える時の、優先順位というものを考えろよ、と。もともと健康診断も受けず好きなように飲み食いして元気だった母が、「糖尿病」と診断されて怖がらせられ、食事制限を守ったせいで体力が落ち、股関節の障害も出て手術を受け、毎週のように病院に通わねばならなくなり、検査でいろんな問題が発見されてその度に右往左往する。
服のボタンを掛け違えたみたいに、どこか根本的に順番が間違っていた。間違いは、その順番を自分で決めるのではなく、「専門家」の意見に従おうとしてしまったことにあった。もちろん専門家の意見は尊重すべきだ。しかし専門家の職業的世界は、因果関係とそれに対処する合理的手続きだけで出来ている。つまり専門家の世界とは”messy”ではない(それが「専門的である」ことの意味なのだから)。彼らは異質な価値を持つものの間に順番を決めることなんて、できないのである。それを決めることができるのは、”messy”なこの世界の現実に直面している、私たち自身でしかないのだ。