10月24日(土)に京都大学文学研究科で行われた、「緊縛ニューウェーブ×アジア人文学」という、不思議なタイトルのシンポジウムに出演した。京大文学部に勤めていた頃の同僚である出口康夫さん(哲学)に頼まれて、ふーん文学部でそんなことやるのかという、まあ興味本位で参加したのである。本来は4月に予定されていたのだが、コロナのために延期されたのだった。かなりの人が現地に観に来て、オンラインの視聴者も国内外から何万という単位であったらしい。大変なイベントに呼んでもらったということが後で分かった。
とはいえぼくは、「緊縛」という文化についてほとんど何も知らないし、「アートとしての緊縛」という題を最初にいただいたが、到底そんなことは話せないと思って悩んだ挙句、「縄と蛇」という話をした。縄が人間身体を緊縛する以前に、縄はそもそも自分自身を緊縛しているではないかという考えから、縄の想像的・象徴的・神話的起源である蛇の交尾、そして古代の自然観における蛇のシンボリズムについて考えてみたのである。ぼくの話の前には緊縛師であるハジメ・キノコさんによる実演もあり、すべてがオンラインで中継されていた。またその後もYouTubeで観ることができた。
ところが先週人から聞いて知ったのだが、この催しが新聞やテレビで紹介されたことによって、「炎上」しているらしいのである。女性が縄で縛られるような映像を流すのは不快であり女性を侮辱するものだ、というようなクレームがあったらしい。そんな映像自体はネットに溢れているわけだから、わざわざこれを非難する理由として考えられるのは、それが「京都大学」による学術的催しとして行われたことに対するものではないだろうか。学術研究の名でこんなものを正当化するのか?というようなことかな。ネットをほとんど見てないので、推測で言っているだけなので、間違っているかもしれないが。
さらに、そうしたクレームが来たことを受け、大学としては謝罪し、記録映像は公開を中止したらしい。すると今度は、京都大学ともあろうものが、そんなくだらないクレームに屈して謝罪や映像削除をするとは何ごとか! というような批判が来たようだ。大学の名でそんな映像を流せば上記のようなクレームが来ることは当然予想できたはずなのに、去年の「あいちトリエンナーレ」の事件から何も学んでないのか、というような非難である。
これら二種類のクレームは一見反対の、両極端の意見のようにみえるかもしれないけど、ぼくは同じだと感じた。ぼくの周囲にも、「緊縛」みたいなもの、SMで変態で、しかも女性差別で、信じられない、というような印象を持っている人もいるし、また逆に、緊縛は日本の文化でありアートとして認められるべきで、それをあえて学術的にとりあげた京都大学はさすがだと思っていたら、つまらんクレームひとつで謝罪とは情けない、やるならしっかりしろ! と憤る人もいるのである。そういう異なった考え方の人たちが両方いること自体は自然なことであり、別にそれでいいのだと思っている。
問題は、自分が不快に思ったことは止めさせなければならないと反射的に思ってしまうことである。そして止めろというクレームが来たら対処しなければならないと思ってしまうこと、そして対処したら今度は、そんなクレームに屈するのかという更なるクレームを言わずにいられなくなる、ということである。さらにはぼくのようなよく分かってない人が、そんな小さなことどうでもいいじゃないですか、などと言うと、うるさい、分かってないくせに呑気なこと言うな、と叱られる。つまり、クレームがクレームを生む脊髄反射的な無限連鎖に、誰もが参加させられてゆく、ということだ。そのことによって、私たちは結果としてどんどん分断されてゆくのである。
私たちのそれぞれは、自分が操られているなどとは夢にも思っていない。緊縛の映像を見て「何だこれは!」と素直にムカついているのだし、それが削除されると「クレームに屈するのか!」と素直にムカついている。そのことを個別に咎めようとは思わないし、SNS上の議論で説得しようとも、できるとも思わない。けれども私たちはみんな、見えない縄で縛られているのだと思う。ちょっとしたことで互いに非難し合い、クレームの無限ループを起動して、互いに分断を促進するように誘導されているのである。瞬間的な怒りの矛先を互いに向け合い、エネルギーを浪費するように仕向けられている。誰かの意識的な陰謀ではないにせよ、こうした事態の究極な原因は、弱者たちがつまらないことでバラバラに分断されることで、その怒りをかわし、自己利益を安泰にしている支配者たちがいるからなのである。