昨日の記事について、たくさん質問をいただきました。全部に答えるのは無理だけど、いくつか。
◯ まず、お前は誰だ?(笑) 的な質問。
ちょっと失礼だけど、まあいい。
このブログは「hirunenotanuki」という名前で動かしてきましたが、別にアイデンティティを隠しているわけではありません。過去の記事を見れば分かります。
日本学術会議の会員ならエラい先生なのだろうと思う人もいるかもしれませんが、実は学問的にたいした業績も貢献もありません。別に謙遜して言ってるのではない。ただ京都大学で美学の教授を10年くらいつとめ、この4年間は美学会の会長をしてきて、歳も相応にとってきたので推薦を受けたのではないか。
◯ 次に、あなたも左翼なのか? というような質問。
違います。たしかにぼくは若い頃テオドール・アドルノやユルゲン・ハーバーマスを読んでいて、その意味ではフランクフルト学派つまり新左翼の哲学を勉強しましたが、自分自身はどちらかというと保守主義だと思います。社会とはメカニズムでなく有機体だと考えているし、革命とは芸術概念であって現実世界で実行すると必ず失敗すると思っている。左翼とは言えない。
ただ、ぼくの周りには左翼的な思想傾向の人たちがたくさんいますが、彼らのことを敵だとはまったく思っていません。反対に、数は少ないが右翼的な人たちもいますが、彼らも敵ではありません。右とか左とかで思想のマッピングをする悪習が、現実を見えなくしていると思っています。前記事に書いた通り、私たちの共通の敵とは、思想なしに権力のみを志向する人たちです。彼らが敵を弱体化するためにイデオロギー対立を利用している、というのが記事の趣旨です。
◯ 「世界を分断しているのはイデオローとイデオロギーの欠如との対立、何らかの理念を持つ人々と、自己利益の最大化のために最適な行動を選択する人々との対立である──このことには共感しますが、それではなぜ今の世界では、前者は後者に負けてしまうのでしょうか?」
この趣旨の質問は多く、そして議論すべき重要な論点だと思いました。
ぼくの考えでは、その理由は究極的には、私たちが貧しさに落とし入れられてしまったからです。
ごく少数の聖人は別として、大多数の人間は貧しくなると、互いに争い合うようになります。あまりに貧しくなると一揆を起こしますが、そこそこの貧しさで、しかも個々人がバラバラにされていると、ルサンチマンは支配者に対してではなく、自分よりも少し恵まれた(とはいえやはり貧しい)隣人に向かいます。
これを支配者の側から見ると、人々を死なない程度の貧しさに落とし入れておき、彼らを仲違いさせておけば、自分たちは安全、自己利益は安泰ということになります。だからそのために、紛争のタネを適度に撒いておくという戦略をとります。(ネットの言説世界が攻撃的で殺伐となるのも、結局は貧しさのためです。だからそれを道徳的に非難しても限界があると思います。)
このことを今回の問題に当てはめて考えるなら、まず日本学術会議といっても、任命を拒否されたのは人文社会系分野であり、それに対して激しい反発をしているのも、主として人文社会系の会員やその周囲の学会、研究者たちです。理系の人たちはそれほど強く反応していません。無関心な人もいるし、そもそも政治的なことに関わりたくない、迷惑だなーという気持ちの人も多いのです。
でもそれを、理系は政治的に無知だと責めてもしょうがないのです。さらに一般社会に広げて考えてみれば、日本学術会議なんてそもそも何なのか知らない人が多いし、前時代的で権威主義的な組織だと思っている人もいる。それも、正しく理解せよと言っても仕方がないし、時代遅れで権威主義的というのは、確かにその通りでもある。
支配側から見れば、研究者も一般の人たちも同様に弱い存在です。しかしヘタに団結されると自分たちは支持を失う危険もある。そこで、知識人として僅かな特権を持つとはいえ、科学者よりは少し弱い立場にある人文社会系学者たちをちょっと虐めたりしておけば、学者たちの間にも反目が生じ、弱い者同士がいがみ合う状況を作り出すことができます。
一方一般の人たちは、「学問の自由が!」と言われても、そんなの学者たちの問題でしょ、私らはそれどころじゃないよと思います。たしかに、「学問の自由」が単に「何でも好きなことを研究できる自由」しか意味しないとしたら、そんなものは理想でも何でもなく、研究者の自己利益にすぎない。研究者以外の人には関係ありません。そんなことで何騒いでんだ、バカか、ということになる。
そして支配者は上から、貧民どもはいつまでも喧嘩ばかりしとってしょうがないなー、と高みの見物をすることができるわけです。
金持ちならずとも、貧しくさえなければ、人間はゆとりが出てきます。隣の人が自分にはワケの分からないことに没頭していたとしても、世の中には変な人もいるものだなーと、余裕を持って眺めることができます。これが健全な社会だとぼくは思っています。「団結」というのは何もハチマキを締めてスクラムを組むことではありません。自分とは異なる隣人を許容できる状態のことですが、そのためにはまず、自分自身がある程度豊かで将来の安心がなければなりません。学問研究であれ芸術表現であれ、そうした環境下で行使される「自由」は、国家そのものの強さになってゆきます。
だから、任命拒否の件はあくまでその理由を追求すべきではあるけれど、過剰に大騒ぎすべきではないと思うのです。それによって、遥かに大きな問題が見えにくくなるからです。現政権に関する最も深刻な問題とは、この四半世紀の間進行してきた新自由主義的政策、規制緩和、構造改革、緊縮財政、つまりは国民を容赦のない貧困に陥れる結果となってきた諸政策を、此の期に及んでさらに加速させようとしていることです。菅義偉はデビッド・アトキンソンを拝して中小企業基本法を改悪し中小企業の淘汰を目論んでおり、竹中平蔵は社会保障の代わりにベーシック・インカムの導入を言い出しました。
これらはすべて、「国民貧困化プログラム」です。それによって、理念を持って行動しようとする人々はますます弱体化されてゆき、理念なき権力の思うがままの世界が到来します。研究者も一般の人々も、右も左も団結してこれを止めなければなりません。本当の危機はここにあるのですが、それを隠したい支配者たちにとっては、日本学術会議程度の問題でみんなが騒いでくれていれば、目眩しとしてちょうどいい、というようなことでしょう。