この二週間ほどちょっと身辺が騒がしくなって、気楽に書く気になれなかったのですが、ようやく幾分落ち着いてきました。日本学術会議の問題に関して書いた記事が広く拡散して、新聞記者や国会議員の方が面談に来られ、それはそれで楽しかったのですが、多くの人に読まれて嬉しいという気持ちは、実はあまりないのです。そんなの、文章を書く人間としてひねくれている、ウソだと言う人もいるのですが、ぼくは何十人とかせいぜい何百人程度のコンスタントな読者の方がいれば十分満足で、それ以上に有名になりたいという思いは、昔も今も一度も起こったことがないのです。
ひねくれていると言えば、日本学術会議の問題についての見方も、ぼくが「京都人」だからひねくれたものの見方をする、というような感想もいただきました。そんなことはないと思うのですが。むしろ自分は京都人にしてはナイーブ過ぎる?とずっと思ってきたので。まあ、自分のことなんて別にどう思われようと構わないし、任命拒否は政権が意識的に仕組んだスキャンダルなのかどうかという解釈も、証明しようがない事柄で、あんまり重要なことではないのです。とにかく何をおいても重要だと思ってるいのは、日本社会の貧困化という問題であって、それが生活はもちろん文化や学術の世界をも蝕んでいるという認識です。
だから、日本国民の貧困化を継続しさらに助長することになる全ての政策に対して、党派やイデオロギーの違いを越えて大同団結することが、最も必要だと思っています。菅内閣が推進しようとしている新自由主義的な政策はもちろん、喫緊の問題としては「大阪都構想」などもそうです。それらによって得をする一部特権階級の人々が賛成するのは理屈が通っていますが、それらによってさらなる貧しさに突き落とされることになる普通の人々まで賛成に回っているのは、単に騙されているということだからです。
この一点において団結できれば、その他の様々な意見や立場の違いは、とりあえず後回しにする。もちろんどんな問題もそれぞれ重要だが、あえて順番を付けるということで、それが政治的判断というものだと考えます。そうしないと、何か適当な問題を炎上させたりスキャンダル化することを、最重要の問題を隠すための目隠しに利用されてしまうからです。日本学術会議任命拒否問題はその一つです。より世界的な規模では、いわゆる’BLACK LIVES MATTER’を煽っているのもそうだと思います。任命拒否も人権問題も、それら自体としてはもちろん重要なことです。問題は、限られた議論の場や時間の中において、最優先すべきことは何かという問いなのです。
言論の自由、表現の自由、学問の自由といったものが、「理念」として大切であることは言うまでもありません。しかしそれらは理念としては合意されていても、私たちがそこに自分の思いを投入するやり方、具体的な事象と結び付ける際のその結び付け方には、普遍的な合意はありません。ぼくは昔の事ばかり考えて頭がおかしくなったいわばドン・キホーテみたいな人であるため、かえってよく見えるのですが、現代人の多くは理念について論じるやり方を知りません。なんでもかんでも事実や「エビデンス」に基づいてでないと議論できないと思っているからです。しかし理念というのは事実ではないから理念なのです。
「学問の自由」というのは、そもそも特定の国家や時代において具体的に実現されているような、特定の状態のことではないのです。プラトンのアカデメイアにも、カントの教えた18世紀啓蒙時代のケーニヒスベルク大学にも、「学問の自由」なんて事実としては存在しません(だからこそカントは「諸学部の争い」を書いたのです)。どんな時代のどんな場所においても、人間の知的活動は常にその時々の政治権力や経済的利害に容赦なく晒されてきたのです。過去を理想化したがる人には見えませんが、ひどいものです。
もちろん、暴走した権力が多数の人々の権利を侵害する形で露骨に知的活動に制限をかけてくる、といった歴史的局面はあります。そうした時に、「学問の自由」という理念を掲げて闘争することはあり得ると思います。それは「学問の自由」が、学者や研究者に限定された問題ではなくて、国家の構成員全体の命運を左右する事柄として多くの人に実感されるような時、つまり「学問の自由」という理念が多数の人々を団結させるキーワードとして有効に機能するような場合です。
今はそのような場合でしょうか? そうではないと思います。日本学術会議の任命拒否を「学問の自由」の侵害であると言うとき、何とも言えないチグハグな感じがします。それは、「学問の自由」を唱えれば唱えるほど、人々は団結するどころか逆にバラバラに分断されていくように感じるからです。つまり現在は、この理念によって多くの人が団結できるような歴史的局面ではないということです。それは「学問の自由」という理念が間違っているからではありません。それを現実の問題と結びつける仕方が間違っているのです。
日本学術会議という組織に属していたり、美学会のような組織を代表している人間が、それらの組織の公式な立場とズレたようなことをネットで発言していいのか?と心配する人もいますが、もちろんいいのです。むしろ発言した方がいいと思います。なぜなら、官庁や会社のような組織に属している人たちは、個人としてのこうした発言が制限されているからです。学術団体にはそれほど厳しい縛りはありません。相対的には言論の自由があるわけです。その代わり気楽なものでそれほど重要視もされませんが、まかり間違うと危険がないわけでもない。
まあ、そういう覚悟で書いています。