◉ れいわTANUKI問答ポンポコ 006 ◉
【Q】コロナで大変と言われてるのに、私の周りでも、そのまた知り合いでも誰も病気になったりしてないし、インフルエンザのような実感がありません。いったいどうなってるんですか? そのことを言っても、友達にも家族にも変な顔をされるし、SNSなどで書こうとしても、何だか怖くて書けません。
【A】まったく素朴な、正しい疑問だと思います。もしも知っている人たちが周りでバタバタ倒れて行ったら、誰が何と言おうと私たちは自主的に警戒するでしょう。けれども、そんなことは起こっていません。今後も起こりそうにはありません。それではどうして私たちは、この暑いのにどこに行くにもマスクをして、いろんなことを自粛してピリピリしているかというと、それは「怖いぞ怖いぞ」と煽られているからなのです。
煽るのは主としてテレビ、それから新聞、そしてテレビや新聞の影響下にあるネットの情報です。そこでは政治家やニュースキャスター、タレント、専門家などが一様に「コロナは怖い」キャンペーンをしています。それは国民を護りたいためではなくて、自分の利益のためです。政治家はこうした危機を利用して、自分の支持を広げることができます。テレビは危機を煽れば視聴率が増え、ニュースキャスターやタレントは自分の知名度を上げたり出演回数を増やしたりできます。専門家のうち、程度の低い人は有名になれるのが嬉しくて危機を煽りまくるし、一方誠実で真面目な人たちは、なるべく安全なことを言わなけばと慎重に発言し、やはり危機を煽ることに利用される結果になります。つまりマスメディアに登場する全ての人は、「コロナ怖い」キャンペーンに加担するような構造になっているのです。
自分はテレビも観ない、新聞も読まない、という人でも、現代においてはネットの大半はマスコミ的情報に支配されているので、同じことです。
なぜこんなことになっているのか? 端的な答えは、今の社会全体が発狂してるからです。しかし、それではなぜ発狂してるのか?ということは、簡単には答えられません。これは突然起こった現象ではなく、何十年も蓄積してきた不安が、コロナをきっかけに、こういう形をとって現れていると思うからです。今起っていることの本質は、新型コロナウィルスの感染それ自体と必然的な関係はなく、情報やメディア、コミニュケーションの問題です。
自分が率直に感じていることを人に言えない、ネットにも怖くて書けない、と感じている人はいると思います。少なくとも日本においては、コロナって何がそんなに問題なのか? みたいなことを言ったり書いたりしてはいけない、という強い圧力があるからです。まったく必要もないような場所でもみんなマスクをしているのは、コロナの予防ではなく「見ザル聴かザル言わザル」の「言わザル」みたいに、口を自ら塞いでいるということです。
そうしたことにある程度気づいている人の中には、「みんな政治家やマスコミの煽りに騙されて、バカか?」みたいな口調で憤る人たちもいます。そして統計詐欺的な感染者数のグラフに騙されず、正しい数値や事実を直視しなさい、と訴えます。それはまったくその通りなのですが、残念ながらほとんどの人々は、たとえ正しい事実を突きつけられても、意見を変えることはありません。強い不安に突き動かされている人々は、事実の正しさが見えないからです。知識によって行動が変化することを期待するのが「啓蒙」ということですが、そうしたことが可能な人の数は限られています。
国民が「啓蒙された少数」と「権力に思うがままに操られる無知な大多数」とに分断されるのはよくない事態です。現在の事態とは、まさに過去数十年間の間に、社会の中にそうした分断と反目の雰囲気が醸成されてきた結果として生じているのだと思います。マスコミの煽動に操られてしまう人々に対して「お前らバカか?」と言う前に、そうなってしまう原因となっている不安を軽減してあげるにはどうすればよいかを考えるべきです。自粛警察みたいなことを自発的にやってしまう人々も、決して敵ではないのです。
空気を読むことを強制したり、同調圧力の強い日本社会の雰囲気は、その中にいるとたしかに耐えがたい気分にもなりますが、外国で起こっていることも見つつ落ち着いて考えてみると、少なくともこの国では、政治的な対立によって殺し合うようなことは(戦前には普通にありましたが現在は)比較的少なく抑えられているという事実はあります。だから民度が高く素晴らしいと手放しで礼賛はできないが、政治家が毒をもられて暗殺されたり、運動家が銃で射殺されるような危険が少ない点はひとまず安心して、その上で何が改善できるかを考えるべきだと思います。
ネットで起こっているように、細かな欠点や意見の相違を取り沙汰して反目や敵対の雰囲気が広がる結果、批判的な意見を持つ人々の力が全体として弱体化されていくことが、ぼくは一番心配です。ある意味、私たちはもっと鷹揚で愚鈍であることが重要なのではないかと思っているのです。