◉ れいわTANUKI問答ポンポコ 005 ◉
【Q】教えてください。「自分らしい」という言葉に悩まされます。自分らしい生き方、服装、考え方等様々な所で使われます。自分らしいという事は自分を捨てる事だとも言われて、よく分からなくなってきました。自分を知る事とはどういう事か教えてもらいたいです。
【A】「自分らしい」「自分らしさ」といった一連の語群は、主として1970年代以降のマスメディアを通じて拡散された、市場開拓のためのキーワードです。もちろんそれ以前の人々が、「個性」とか「その人らしさ」といった事柄を重んじなかったというわけではありません。けれども昔は、それらは個々人の生活世界におけるトピックであって、市場経済には組み込まれていませんでした。つまり、人々はそれらを求めて悩んだり、それらを得るために何らかの集団的な購買行動を起こす(自分らしくなるために何かを買う、サービスを受ける、等)といったことは、あまり見られませんでした。
1950-60年代の高度経済成長期においては、「自分らしく」あることよりもむしろ、より豊かな階層の人々と「同じ」になること、誰もが家電の「三種の神器」(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)を持つこと、大学を出て大企業に就職すること、結婚して郊外に一軒家を買って車を持って、等々、空想的には「アメリカ人のように生きること」が人生の目標となり、ほとんどの経済行動はそこに向かって誘導されていました。(このように主流派の人生観がきわめてハッキリした形を持っていたので、それへの反逆──ロック、前衛、サブカルチャー、等々──も、明確なスタイルを主張することが可能でした。)
けれども1970年代になり、多くの人がそうした画一的な幸福のイメージを多少とも実現してしまうと、マスメディアの中では「みんなと同じであること」が攻撃され始めました。人々が「同じような幸せ」を欲しがらなくなったので、それだけではモノが売れなくなったのです。そこで、今のあなたは本当のあなたではない、本当の自分を手に入れなければ幸せになれない、というキャンペーンが始まりました。そのために利用されたのが「自分らしさ」というキーワードです。
「自分らしさ」が生活世界から自然に発生した概念ではなく、上のような歴史的経緯の中で、市場開拓のために意図的に作られ拡散された言葉であることは、考えてみるとすぐに分かります。この言葉には「意味がない」のです。意味がないので、外国語に翻訳することができません。「自分らしさ」の英語を探すと、「パーソナリティ」のような言葉が出てきますが、それなら「個性」や「人格」と言っておけばいいので、「自分らしさ」などと言う必要はありません。
意味のない言葉は単なる記号としていくらでも弄り回すことができるので、質問者の方が指摘されているように、「真に自分らしくなるためには自分を捨てなければならない」というような、禅問答の出来損ないのような言葉遊びがいくらでも可能です。こういう逆説的な言い回しには、一見何か背後に深遠な真理が隠されているように思うかもしれませんが、実はまったくの無意味です。まさに意味がないことによって、それは人々を際限なく操作することができるのです。「自分らしさを見つけた」と言っている誰かに対して、「いや、あなたは騙されている、それはあなたの本当の自分らしさではない」と誘惑することができるからです。
「自分らしさ」に悩んでいる人は、テレビを見たり雑誌を読んだりして、ある時ふと、「これこそが自分らしさではないか?」というような「救済の声」に出会います。「これだ、私の求めていたものは!」と思う。それはファッションであったり、ダイエットであったり、趣味や技能の習得であったり、ライフスタイルや人生観の提案であったりいろいろですが、冷静に考えてみると、テレビや雑誌の中にあったということは、それらが多くの視聴者・読者に「これこそが自分らしさだ」と思わせるために開発された「商品」にほかならないことを意味しています。
それでは、マスメディアやネットが提供する安易な商品ではない、本当の「自分らしさ」を求めて、「自分さがし」の旅にでも出かけるべきなのでしょうか? (1970年に旧国鉄が始めた「ディスカバー・ジャパン──美しい日本の私」はそうしたニーズのために開発されたサービスでした。)それとも逆に、「自分らしさ」を遠くに求めることをやめてしまえば、ふと気がつけば傍らに、「青い鳥」のように「自分らしさ」を見つけることになるのでしょうか? まあ、旅に出るも出ないも別に自由なのですが、いずれにしても、「自分らしさ」の呪縛の中に囚われていることには変わりないように感じられます。
このように「自分らしさ」の魔力は強いものですが、それは今の自分に不満や不足を抱いている人にしか通用しません。幽霊が、はじめから恐怖心を抱いている人にしか現れないのと同じです。だから「自分らしさ」の呪縛から逃れるのは、ある意味とても簡単で、とりあえず今の自分をそのまま肯定すればいいのです。まずは「現状に満足する」ということです。それでは向上がないではないか、と言う人がいるかもしれませんが、向上するためには、「どこかにいる本当の自分」を求めて右往左往するのではなく、まず現状を肯定することから出発すべきです。
子供は、母親によってまず「生まれてきてよかったね」とその存在を全肯定されるからこそ、その後成長することができるのです。だから、「今の自分は本当の自分ではないのではないか?」といった問いがインチキであることを知りましょう。自分をまずは肯定する態度の方が、「自分を知る」ということによほど近いのです。