「美学特殊講義1」雑談その12
「クイズの地平と非在者の臨在」
先月の記事で、国語の問題に使用された文章の意味について、「突然すみません」とメールで質問してきた中学生の話をした(「美学特講1」雑談05 https://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2020/06/kwansei-bigaku-zatsudan05.html)。
実は、その後も少しやりとりがあって、また別な箇所について、この比喩表現はこの意味でいいでしょうか? と聞いてきた。「それでいいと思うけど、正解は先生に聞いてね。」とぼくは答えた。その後で「ところで、もしも作者がそういう意味のことが言いたいのなら、どうしてその通りに書かずに、わざわざ比喩など使うのだろう?」と訊ねてみた。するとしばらく経って、「一回読むだけでははっきり理解できなくて、よく考えるとわかるので読者にこの意味を気づいてほしいという作者の意図があるのではないかと思いました。」という回答が来た。
すばらしい。あんまり可愛いすぎて、返事を出すことができずにいる。
学校の勉強はクイズのように作られていると言ったけども、この回答は一見、クイズの「正解」のようには見えないかもしれない。国語の先生はこれを褒めるだろうか。分からない。たしかにぼくが出した問いは、「Q:『ハムレット』の作者は? A:シェークスピア」のような、事実を要求する問題ではないから、回答には幅がある。もちろんぼくは、クイズを出したつもりはない。けれどもやっぱり、この状況ではクイズになってしまったのである。
「人はなぜ比喩を用いるのか?」。これは美学におけるビッグ・クエスチョンでもあり、必ずしもクイズの問題ではない。けれどもあらゆる問いは、ある条件の下に置かれると、クイズの問題になる。この場合は、問いが「学校の国語」という条件に入ってきた時である。その世界では、出題者は原則として正解を知っていなければならない。でないと採点ができないからである。
学校の教科の中でも、数学には正解があるが作文や美術には正解はなく、自由であるというようなことを言う人がいる。そんなのはウソである。作文にも美術にもちゃんと正解がある。採点されているのだから当たり前である。作文や美術の「正解」とは、その学年に応じていかにも子供らしい、しかし大人もハッとさせられるような、つまり文集や作品展に推薦したくなるような提出物のことである。
多くの人は、自分の知識が「採点」されることが、とても好きなようである。学校に行っている時には嫌でも採点されてしまうが、社会に出るとそれほど単純ではなくなる。自分の仕事が「評価」されることも、採点といえば一種の採点だが、大抵の場合、そこにはきわめて複雑な条件やバイアスがかかっていて、とても公正とは言えない場合が多い。しかも評価は収入に関わる。だから「クイズ」が息抜きになるのである。
人はいつからクイズにハマるのだろうかと考えてみると、たぶん思春期の後である。小学生もクイズが好きなように見えるかもしれないが、実は小学生が好きなのはクイズではなくて「なぞなぞ」である。なぞなぞは、クイズとは似て非なるものだ。
「世界の真ん中にいる虫はなーんだ?」答えは「蚊」。これがなぞなぞである。まず「世界の真ん中」と言われて、一生懸命に想像する。でもそれでは分からない。世界、世界と考えているうちに「せかい」という言葉の真ん中だと分かる。なぞなぞというのはこういうのが多い。
小学生はまだ、言葉が世界に対応していること自体が、不思議で仕方がないのである。そして子供にとって、大人の世界(実在する宇宙)に直面することは恐ろしい。だからなぞなぞを考えることで、言葉の世界を手探りで進みながら、実在する世界の脅威から、いわば身を護っているのである。
思春期になると、この感覚は消失する。極論すれば大人になるとは、なぞなぞの世界からクイズの世界に入るということである。
大人になると、「クイズ」の力は圧倒的となる。ほとんどの人にとって、およそ知識とは「クイズ」によって構造化されていると言ってもいいくらいである。科学的探究とは「神様の出したクイズを解くこと」だと考えている人すらいる。しかし、クイズもまた広い意味では、一種の防衛なのである。
クイズはなぞなぞとは異なり、実在する世界に関わっている。実在する世界と対応する答えが「正解」であり、それによって採点が行われる。世界の中心に「蚊」がいるわけではないが、『世界の中心で愛を叫ぶ』(片山恭一、2001年)というタイトルが、「世界の中心でアイを叫んだけもの」(『新世紀エヴァンゲリオン』最終話サブタイトル、1996年)、さらには『世界の中心で愛を叫んだけもの』(ハーラン・エリスン、1969年)に辿れるという推測は、実在する世界に関わるものである。正解が存在するためには、それが真である必要はない。『ハムレット』の作者だって、フランシス・ベーコンかもしれないからである。
今月号の『ユリイカ』の特集テーマは「クイズの世界」である。これを読むといかに多くの人たちが、クイズに並々ならぬ関心を持ち、情熱を傾けているかが分かる。クイズに冷淡なぼくには、とても勉強になる。もちろん寄稿者の中には、「クイズ」という知識の形式に批判的な距離をとりつつ考えている人もいる。なかでも異色なのは、理論生物学者の郡司ペギオ幸夫さんによる論考「クイズ番組のドラァグ・クイーン的解体」だ。
なぜドラァグ・クイーン? 性のアイデンティティに関わる問いは、人が最も早くから突きつけられる問題である。就学前の幼児でも、自分が、あるいは誰かが「男か女か」を気にする。したがってこれは、思春期のはるか以前から子供を脅かす実在世界の脅威のひとつとも言えるし、また言語と実在を貫通している脅威であるとも言える。
ドラァグ・クイーンは、この問いの彼方にいる。彼らは「男でも女でもある」のでも「男でも女でもない」のでもない。「男か女か」という問いによっては見えないのである。いわば、問い自体が彼らの存在を覆い隠している。そういう彼らを仮に「他者」と呼んでおく。他者とは、目の前にいるのに見えておらず、かつ見えていないことが分からない存在のことである。
見えていないことが分からないとはどういうことか? 郡司さんはそれを、「消失点」によって図式化する。遠近法は消失点を持つことによって、見えている世界の全てを再現しているようにみえる。だがそのことは逆に言えば、消失点が画面の中にあることによって、まさにこの「すべてが見えているはずの画面」という世界があるために見えないものがある、という事実が隠されてしまう。クイズの世界とはそうした「すべてが見えているはずの画面」なのである。
クイズの世界とは他者を隠蔽するよくないもので、我々はそこから目覚めねばならない! などということが言いたいわけではない。クイズの世界とは、「そこから目覚める」にはあまりに強力な体制であって、批判の対象にならない。クイズとは、脳に起因する自然の一部なのである。自然を啓蒙によって変化させることはできない。ただ、それについて考えることができるだけである。
そのことをぼくの言い方で再現してみる。クイズがかくも強力なのは、私たちの中の自然(ヒューマン・ネイチャー)が、「終わり」を望むからである。最終的解答があり、採点(最後の審判)が可能ということは、「終わり」があるということである。この「終わり」が、遠近法の消失点と同じように、他者を不可視にする。ぼくは生物学的に生きている存在以外も含めたいので、「他者」ではなく「非在者」(こなれない言葉だが)と言う。
「非在者」とはここにいない者、いないにも関わらずどうしても気になる存在、という程度の意味である。死者や未生の者も含むと考えてもらっても構わない。なぜそれが気になるのかというと、私たちのクイズ的な知識世界、問いと答えによって組織化されている知識世界それ自体が、決してその世界内には現れない非在者によって、可能になっているからである。非在者は、決して現れることはないが、必然的に、そして常に、臨在している。
そのことは、クイズを解くことによってではなく、クイズについて考えることによってしか、認識できない。哲学とはクイズについて考えることである。
こうしたことを中学生に説明する方法を、今模索しているのである。