土曜日には横浜で、室井尚さんの代表する科研「脱マスメディア時代のポップカルチャー美学」の第一回オープン研究会がありました。オープンといっても距離を保つために参加定員は20人としましたが、高校生を含む多様な聴衆が集まり、ほぼ定員いっぱいとなりました。今回は室井さんと東大の吉田寛さんが発表し、その後活発なディスカッションが行われました。
次回は7月25日に同じ会場で、今度はぼくが何か話をすることになりました。詳細については、もう少し近づいてきたらここでも告知します。
さて、今朝横浜から帰る新幹線の中でメールをチェックしていたら、まったく知らない人から思わぬ質問が来ていました。この「美学特講1」に関する質問ではないのですが、メディアの問題を考える上で面白いきっかけになるかと思ったので、名前を伏せてご紹介します。
【Q】
いきなりすいません。東京都で中学校に通っている◯◯と申します。中学2年で「情報と身体」という文章をやっていますが、「人々は情報を既製品のカタログのようなものとして経験する」とはどのような意味でしょうか。よろしくお願いがい(ママ)します。
何のことか説明します。「情報と身体」というのはぼくが2002年(だったかな)に『朝日新聞』に書いた短い論説文のタイトルです。その後、国語の教材として入試問題や参考書に使われました。三省堂の国語教科書には今も載っています。本文はネットにも公開しています。「人々は情報を‥‥」というのはその中の文の一部で、たぶんここに傍線が引かれて「筆者はこの箇所で何を言おうとしているのか、簡潔に説明せよ」のような設問になっているのだろうと推測されます。
不得意な国語の宿題を解くために、ネットで検索して見つけた著者のアドレスに「いきなりすいません」とメールして本人から答えを聞こうとしたものと思われます。いくらなんでもそれはないだろう(笑)。それはともかく、こういう質問が来るという状況それ自体はちょっと面白いな、と思いました。
問題のエッセイは2000年代初頭におけるネットの状況について論評したもので、もちろん今の中学二年生はまだ生まれていないし、この講義を読んでいる人たちの多くも、まだ子供だったのではないでしょうか。
2000年代初頭は、インターネットの利用が一般の人々の間にまで急速に普及しつつあった時です。仕事でも家庭でも、誰もがネットによって世界につながるべきだ、という強い圧力がかけられていた時期ですが、そうした状況に対して、ネットによってはたして世界は広くなるのか、本当は狭まっているんじゃないか? とあえて考えてみるのが、このエッセイの趣旨だと思います。
けれども現代の十代、二十代の若者にとっては、物心ついた時にはネットの存在はもう既存の現実で、それに対しては別に何の驚きもまた失望もないというのが、おそらく実感でしょうね。ネットとは、それなしには政治もビジネスも日常生活も成り立たない、社会の自明のインフラであって、それがいいとか悪いとか言っても仕方がない、という感じかな。だから上のような箇所がピンと来ないのは当然なのかもしれません。
とはいえ、実はそんな単純な問題ではないと考えています。つまりネットは今もなお、自明な存在などではないと思うのです。自明のように見えるのは、たんに私たちがネットをある特定の仕方で使用するように、条件付けられているからに過ぎないのです。思いがけないことが起こる可能性は、まだまだいくらでも潜在していると思います。
京大文学部で教えていた頃、入学試験の会場に携帯電話を持ち込んで、設問をネットに公開して答えを教えてもらおうとした受験生がいました。2011年のことです。解答は即座に誰かが与えてくれたようですが、残念ながら解答のレベルが低すぎて、合格することはできませんでした。たかがカンニングに過ぎないのに警察が動いて本人が突き止められ、連日新聞にも載って大騒ぎになりました(まもなく東北大震災が起こってそれどころではなくなりました)。
当の京大内では、この種の事件はまだ日本では珍しかったこともあり、「そんなオモロいことしよるやつ、入れたったらええのに」などと言っていた他学部の同僚もいました。たしかに入試問題の答えをネットで誰かに教えてもらおうなんて、動機は最低なのですが、それをあえてやることによって、「ネットに聞けば何でも分かる」という常識に対する(意図しない)批評的アクションのようなものにはなりました。
今回の質問も、これに少し似ています。もちろん、文の意味をその作者に問いただすことは、カンニングでも犯罪でもありませんが、この質問の文面からして、文章の内容に興味があるからではなくたんに正解が欲しいという動機が見え見えです。しかし少なくとも、ぼくは知らない中学生から突然こんなメールをもらうなんて予想していませんでした。そして自分が中学生の時、本を読んでいて分からない箇所を作者に聞こうなどとは、思いもしませんでした。だからこれは、ささやかながら、ネットが可能にしたひとつの「思いがけない出会い」だと言うことはできると思います。
というわけで、この中学生には以下のように回答しておきました。
【A】
◯◯君
ぼくの書いた作文についての質問ありがとう。
でもね、見ず知らずの大人に突然メールを出して何か質問する時には、もっとちゃんと挨拶し、自己紹介もして、また自分がどうしてそのことが知りたいのか、ということをきちんと説明しないとダメですよ。君の書いた文面では、単に手っ取り早く正解が知りたいから、書いた本人に聞いてやれ!という意図が丸見えで、たいへん失礼です。
それはともかく、大切なのは次のことです。
文章とその意味との関係は、クイズとその答えの関係と、同じではありません。クイズなら、作った本人はあらかじめ正解を知っているでしょう。でも文章の場合はそうではない。学校の国語の勉強では、いろんな事情があって、文章からその意味を答えるクイズみたいなものが、便宜上作ってあるのです。
けれどもそれは、文章を書いた人には何の関わりもないことです。だから、書いた本人は「正解」を知りません。答えたとしても、それは国語の「正解」とはたぶん一致しません。
だからこそ、文章というものは面白いのです。
まだよく理解できないかもしれないが、イジワルして答えを教えないのではないよ。君が自分で考えて「こういう意味だと思いますが、どうでしょう?」というふうに聞いてきたら、何か言ってあげることはできます。
では。