最初の頃のような、まとまった質問やコメントがあまり来なくなった。当初の盛り上がりが去って、落ち着いてきた感じかな(よく言えば)。質問なのかどうか分からないような、断片的反応はいくつか来ていますが、うまくまとめることができないので、それらのトピックに言及しつつ、気の向くままに、おしゃべりしてみます。その方が雑談らしいと言えば、そうかもしれない。
1️⃣ アメリカの人種差別に反対するデモと暴動に関して。これ、いくつか来ましたね。
これを読んでいる若い学生や院生の人たちにとっては生まれる前の出来事だろうが、1992年に、ロサンゼルスで死者60人を越える大規模な暴動が起こりました。きっかけは、その前の年に、ロドニー・キングという黒人が、飲酒の上スピード違反で捕まったのですが、態度が悪かったので4人の白人警官が彼に暴行を加えた。それを近くに住んでいた人がたまたまビデオカメラで撮影していて、その映像がメディアを通じて世界中に流れたのです。ところがこの警察官は裁判で無罪になったので、大規模な抵抗運動と暴動に発展したわけです。(調べずに思い出しながら書いているので、間違ってたら訂正してください。)
問題の映像は今でもネットで簡単に見ることができますが、確かにこれだけ見ると、かなり酷たらしいイメージです。比べたら、今回のよりひどい。ボコボコに殴ってますからね。ただ、この暴行に人種差別がどれくらい関与しているのか、この映像だけからは証明できない。けれども、世界中の人がこの暴力シーンを見て動揺したことで、それは黒人差別を告発する象徴的意味を持ちました。にもかかわらずロサンゼルス暴動では、韓国人が経営する商店が襲撃されたり、マジメに平和的にデモをしている人々にとっては許しがたい展開もありました。この点も今回と同じです。
そもそも一枚の写真や短い映像がきっかけとなって、大規模な政治的抵抗運動へと発展するという現象は、ベトナム戦争の時もありました。しかしベトナムの時にそうした象徴的意味を担ったイメージは報道写真や映像で、もちろんそれがマスメディアを通じて広がったものです。ロサンゼルス暴動では、一般の人が撮ったホームビデオの映像が、マスメディア経由で拡散した。そして今回の事件ではスマホの映像が、直接インターネットによって拡散しました。メディア史的に見るとそんな感じです。
情報が広範囲に拡散するためには、短く簡潔であることが必要です。そして短く簡潔な情報は、必然的に文脈から切り離されてしまいます。そのことを自覚的に理解している人は、脱文脈化された映像からその背景となる情報を辿って自分自身の判断を構築しますが、そんなことをする人は少数です。多くの人にとっては、断片化された映像が何らかの政治的主張と、即イコールになります。
そして行動へのエネルギーを与えるのは、もちろん映像そのものが持つ情動的な側面がありますが、同時に、その映像やそれが象徴する政治的意味とは直接関係のない要因もあります。今回の場合、明らかにこの数ヶ月、新型コロナ感染がもたらした全世界的な閉塞状況に対する強い不満が、大きな増幅要因となっていることは確かだと思います。運動を広げようとする人にとっては、この条件は大きな戦略的意味を持つと思います。
2️⃣ そんな突き放すような言い方をして、先生自身は黒人差別や人種差別をどう考えるのですか? という声も聞こえるので、それに対してもコメントしておきます。前の講義でも触れたように、もちろん個々の問題に対しては、倫理的な議論や法的な闘争によって対処していかなければならないのです。日本人だって欧米社会にある程度いると、差別を感じる機会に遭遇します。そして啓蒙も必要です。たとえば「人種」それ自体が、現代の生物学や進化人類学においては意味をなさない概念であることは、もっと教科書とかにハッキリ書かないといけません。
しかしこうした「啓蒙」に影響を受ける人の数は限られています。人種差別をする人は、「人種」という概念それ自体に科学的根拠がないと証明されても、差別を止めるわけではありません。なぜなら、彼らは何か目的があってそのために人種差別をしているのではないからです。人種差別をする動機は、彼ら自身の内部にある、強い不満です。不満の原因は色々ありますが、経済的な要因が大きいのではないかなと思います。自分が本来受け取るべき利益を、誰かに奪われているという意識です。だからロサンゼルス暴動の時も、元々黒人差別に対する運動が、在米韓国人に対する攻撃を派生したのです。
そのように社会の中に胚胎する不満をなるべく小さく抑えていくことが、政治の究極の目標ではないかと思います。
3️⃣ 今の状況で、いろんな人がいろんなことを言うけれど、どれも心に響かない。もう、いい加減ガマンの限界にきました。そもそもこの状況はいったい何なのですか!?というような一連のコメント。こういうのは、一見自分勝手な印象を吐露しているだけのようだけど、ぼくはある意味、たいへん共感します。その通りです。「一体何なんだ、これは!」と叫びたいのに、なんかいろいろと抑制されている。叫ぶべきです。けれども叫ぶ場所がない。
ぼくが現在、これは認めがたいと感じている言葉のひとつは、「コロナ後」という言葉です。いったいいつ、誰が、どんな権限で、時代を「コロナ前」と「コロナ後」に分けることを承認したでしょう? ぼくはしていないし、誰もしていない。にもかかわらず、当たり前のようにみんな使っている。みんなが当たり前のように使っているという事態に、大きな抵抗を感じます。
こうした言葉は「遂行的発話」と呼ばれるものです。つまり「コロナ後」なんて全く定義されてないのに、多くの人が意味ありげにそれを使うことによって、それは「ある」ことになるのです。しかし何も考えられていないので、中身はありません。だから、そこに好きな意味を投入することができます。「コロナ後の新しい生活様式」と言われると、あたかもそうした新時代の生き方が存在しているように思えるのです。
それは「戦後」という言葉に似ています。戦争が終わったのは客観的事実だとしても、だからといって「戦後」という新しい世界が自動的にスタートしたとは限りません。しかし「戦争」はコロナ危機の千倍も大きなストレスを伴う事態だったので、それが集結すると何もかもが新しくなるような気がします。それに乗じて「戦後」なのだからこうなるのは当然だ、みたいな言説がまかり通るようになります。
戦後もコロナ後も、ものが言いにくい、と感じる人が多くなってくる。ものが言いにくいだけならまだいいのだけど、だんだん、生きづらい、ということにもなってきて、本当に生きるのを止めてしまう人も出てくる。もちろん、経済的に困窮して自殺を余儀なくされるという容赦ない事態もあるのだけど、基本的には、人間はお金に困っただけでは死んだりしないし、誹謗中傷されただけでも死んだりしない。死ぬのは、自分の存在に関する基本的な肯定感が失われるからだと思うのです。
こんな、ブログで講義したりするのも、お互いに、それを失わないために、書いている。まあ、大袈裟に言うとね。気の利いたことを言って尊敬されたいという欲望がゼロなのだけが、ぼくの取り柄だからね。