「美学特殊講義1」 講義後の雑談 01
この講義に関して、メール、メッセージ等で寄せられた質問等にも随時、できるだけ答えてゆきます。直接講義の内容に関係することでなくても構いません。コメントはそのまま引用することはなく、匿名化した上で要点のみを簡潔にパラフレーズします。
【Q】
自分への反省も含めて言うのですが、今の若者は歴史を知らないとよく言われます。美学や芸術に関する事柄にしても、歴史的文脈を知らないと正しく理解できないように思うし、自分自分の生きている時代について考える時も、視野が狭くなることは分かっているのですが、ネットや本で歴史を調べ始めると、膨大でキリがなく、つい誰かの簡潔で断定的な要約に頼ってしまいます。歴史に興味がないのは若いから仕方がないのかとも思いますが、同じ歳のアジアからの留学生は日本人の学生よりも、はるかに歴史に関心があり知識もあるように思えるのです。もっと歴史に興味を持つにはどうしたらいいのでしょうか?
【A】
たいへん、マジメな質問ですね。ちょっとマジメ過ぎるかもしれない。
結論から言うと、興味というのは思わず生じてくるから「興味」なのであって、興味を持つにはどうすればいいかと悩むものではないし、努力して興味を持とうとしても、かえって興味はなくなります。若者が頑張って歴史の勉強をしているのを見ると、先生たちは喜ぶかもしれませんが、先生を喜ばすために勉強しても仕方がないでしょう。興味がないものは放っておけばいいのです。本当に自分が知りたい知識だけを求めましょう。時間のムダです。
「今時の若者は歴史を知らない」という年長者の文句は、それこそ世代を越え歴史を通してずっと言われ続けてきたことです。ということは、皮肉なことにこの文句自体は「超歴史的」であると言えます。さて、どうして年長者がいつの時代も若者に対してこういうことを言いたがるのかというと、それは彼らも若い時に歴史を知らなくて、大人からそんな風に言われ続けてきたのに、今だって本当はそれほどよく知らないからなのです。大人が何でも知ってるように偉そうに振るまうのは、もう試験されないことが分かっているからです。
歴史に関してだけではなく、年長者が若者に対して苦言を呈する時というのは、たいてい自分自身の不安からなのです。たとえば、オジサンたちはよく子供や若者の「ネット中毒」について心配するようなことを言いますが、実は若者よりもはるかに深刻にネット中毒になっているのはオジサン達です。中毒になっているのに、ネットというものがよく分からないから不安なのですね。それでその不安を、子供や若者に投影して説教をしてしまうわけです。
だからそういうお説教はあんまりマジメに受け取らないで、適当に聞き流しておけばいいのです。大人たちも辛いのだから、可哀想と思ってあげましょう。
けれども、なぜ自分は歴史に興味が持てないのかを、落ち着いて考えてみることには意味があります。アジアの留学生と比較して、現代日本の大学生が歴史を知らないというのは、一般的に断定はできませんが、まったく根拠のないことでもありません。ここで「歴史」と言っているのは、とりわけ近代史のことです。
日本の近代史は、戦争や植民地主義の歴史と切り離せないので、政治的にコントロバーシャルな話題に直結してきます。するとそれについてコメントする人は、第2回の講義で言及した「知識人」的な語りへと誘導され、即座に政治的プロパガンダとして解釈されて闘争の場に引き込まれてしまいます。この闘争も、まともな議論ならいいのですが、大抵は「サヨク」とか「ネトウヨ」とかいった「立場」が先にあって、炎上と誹謗中傷が行われるだけなのです。こうした傾向はどの国にもありますが、日本のネット文化はその度合いが高いと感じます。
そんな面倒なことに関わりたくない大多数の若者は、そうしたトピックに言及すること自体を控え、やがては歴史に興味を失うようになります。もちろん自分の「立場」をしっかりと持って闘争する用意のある若者たちもいますが、少数です。彼らは、日本中の若者が目覚めて自分たちのようになるべきだと考えるかもしれませんが、そうはなりません。
「立場」というのも、最初に決断して選び取るものでも、努力して守るべきものでもなくて、自分が様々なことを知るようになった結果として、どうしても出来てくるものだと思います。したがってとりあえずは、明確な立場や定見を持っていなくても、歴史に関して話し合うことのできる「場」を持つことが重要だと思います。大学の授業がそうした場のひとつになることは可能です。
もしも日本以外のアジアからの留学生が、日本人学生よりも歴史を知っているように感じられるとすれば、それは彼らが多かれ少なかれそうした「場」を持ってきたからです。つまり歴史的話題を単なる教養や政治的闘争のためではなく、自分の問題として経験できる環境があったからだと思います。それに対して日本の若者は、歴史を知らないのではなく、知りたくなくなるように、社会的・構造的に誘導されてきたということです。無知は自己責任ではありません。歴史に興味が持てないという事実それ自体が、実は特定の歴史の産物なのです。