・인사 만 한국어로. 교토 대학교에서 미학의 교수를하고있는 吉岡洋입니다. 현대 미술과 미디어 아트 관한 활동 도하고 왔습니다. 적어도 이제 일본어로 이야기합니다.
・私のお話のポイントは、クシシュトフ・ヴォディチコの作品を手掛かりにして、芸術活動と社会との関係を、根本的に考えてみることです。そもそも作品が社会的なメッセージを持っているとはどういうことなのか? 社会的な内容をもつ芸術活動は、社会的な意見表明を行うこと――公的な場で発言したり、ビラを配ったり、署名を集めて嘆願書を出したり、デモ行進をすること――とは、何が違うのでしょうか? それとも、何も違いはないのでしょうか?
・この問いには、簡単に答えることができません。慎重に考察する必要があります。そのためには、この問いに密接に関連するいくつかの問題についても検討する必要があります。今日は時間が限られているので、そのうち二つの問題について考えたいと思います。それを通して、芸術と社会との関係という問いに答えることを試みようと思います。その一つは「メモリアル」「記念碑」的なものとの関係という問題であり、もう一つは「芸術の有用性」、芸術は何の役に立つのか? という問題です。
・これらの問題は、ぼくがこれまでクシシュトフ・ヴォディチコの作品を経験する中で考えてきた事柄であり、芸術と社会という問題にアプローチするために役に立つと思います。またそれらは、ヴォディチコ氏自身が考えてることとも、重なり合うものだと考えます。これらの問題を考えてみることはまた、ひとりのアーティストの作品解釈ということを越えて、芸術一般、そして私たちが生きているこの世界について、深く理解するためにも役に立つものだと思います。
・では最初に「メモリアル」、「記念碑」あるいは「記念碑的なもの」について考えてみたいと思います。記念碑的なものというのは、特定の時間や空間の中で生きたある人間、その人が考え行ったこと、あるいは生じた出来事などを、何らかの物質的な形として固定すること、そしてそれを長い時間に渡って社会的に共有するということです。それは絵であったり、銅像であったり、建造物であったり、あるいはお金、紙幣などであることもあります。
・記念碑的なものは、それが何を表象していようとも、それ自体は動かない物質であり、安全なものです。たとえ熾烈な戦闘が描かれていようとも、戦争の記念碑によって私たちは怪我をすることはありません。また、長い時間公共の場に置かれることによって、私たちはだんだんそれらの存在に慣れてゆき、それが本来背負っていた過去の記憶やメッセージが薄れてゆきます。それらは日常世界の一部となり、それらが「そこにある」ことに疑問を抱かなくなってゆくのです。
・その反面、見方を変えると、突然それらは奇妙なもの、場違いなもの、その存を許すことができないものとして現れます。なぜなら、それらは公的な場所で日々多くの人の眼にさらされることによって、それが意味するものが「承認されている」ように思えるからです。たとえば先日のシャーロットビルの事件以来、アメリカ合衆国では、歴史的人物の銅像を撤去すべきだと運動が起こっています。それは、南北戦争時代の将軍は「白人至上主義」を代表し、クリストファー・コロンブスは「植民地主義」を代表するので、それらの像が公的場所に存在することは白人至上主義や植民地主義を容認することを意味する、と考える人々がいるからです。
・もうひとつ滑稽な例をあげるなら、数年前日本の島根県奥出雲町という町の公園に設置されたミケランジェロの「ダビデ」像に対して、地域の人々から「バンツを履かせて」という苦情が出たという話があり、海外でも報道されました。これは面白い話題です。それは、なぜ公共の場所に裸体像が置かれるのかとか、欧米では「芸術作品」の代表的イメージである彫像が、日本の地方都市においても同じように受け取られるべきなのか? という問いに関わってくるからです。日本では、駅前のような公共の場に女性の裸体彫刻像が置かれていることがありますが、それは太平洋戦争前に、その同じ場所に昔の武将や軍人などの像があったからです。それらが軍国主義を代表すると考えられたので、それに替えて近代的な裸体彫刻を(戦後の自由や民主主義を代表するものとして)設置したからなのです。
・このように、一般に人々が記念碑的な像に対して何らかの抗議を行う場合には、それを「撤去せよ」という要求になります。逆の立場に立つ人はもちろん、その存在を肯定し撤去に反対します。つまり撤去すべきか、それとも存続させるべか、の二者択一になるわけですね。それに対して、記念碑に対して芸術的な態度で臨む場合には、まったく異なります。その記念碑が気に入らないから撤去せよというのではなく、むしろ記念碑に何らかの働きかけを行い、その存在の自明性、日常性を揺さぶって、その記念碑が異なった仕方で見えてくるような工夫をします。その意味では、先ほどのダビデ像にパンツを履かせるという選択は、バカバカしいけれども芸術的と言うべきかもしれません。
・クシシュトフ・ヴォディチコはかつて「戦争の記念碑はあるが平和の記念碑はない」と言いました。いや、平和の記念碑はあるではないか? と私たちは反論するかもしれませんが、今日私たちが「平和の記念碑」とみなしているものはたいてい戦争の記念碑です。つまり戦争がかつてあったことを記念する建造物なのであり、戦争が今は(少なくともその場所には)ないことを示している、それを私たちは平和の記念碑と呼んでいるだけなのです。すなわちそこでの「平和」とは、たんに(少なくとも今ここには)戦争がない、ということにすぎないわけです。こうしたことをハッキリ意識させることも、記念碑を別な仕方で見せるということのひとつです。
・それでは次に二番目の話題、「芸術は何の役に立つのか」という問題について考えてみます。クシシュトフ・ヴォディチコにはここに出展されている「ホームレス・ヴィークル」「ポリスカー」「異邦人の杖」のように、社会の中で不利な立場に置かれている人々、とりわけ大都市におけるホームレスや、移民の「ために」制作された作品があります。こうした作品は一種の道具やガジェットのような形をしているために、これらの道具はそうした人々のために役立つのだろうか? という疑問を引き起こします。彼が1999年に再び広島を訪れた時に制作された「ディス・アーマー(武装解除)」という作品は、人と面と向かって話ができない日本の若者のために、対面しなくてもコミュニケーションができる装置のように思えます。これらは本当に役に立つのでしょうか?
・そうは思えません。それらは、私たちが日常使っている道具や製品のように、直接的な意味で「役に立つ」のではないのです。そうした道具によって、ホームレスや移民や若者の引きこもりといった問題が直接「解決」されることはありません。それでは、それらはたんに現代の社会問題に言及している奇妙な道具にすぎないのでしょうか? アーティストは人々の注目を集めるために、社会問題をネタにして悪ふざけをしているだけなのでしょうか? これは、社会的な事柄に言及する芸術活動が共通に直面する問いです。それには一般的な答えはなく、個々のアーティストや作品ごとに個別的に、「美的に」判断される他はないとぼくは考えます。一般に近代的な芸術は、有用性、役に立つということに対して冷淡で軽蔑的な態度をとることが多かったと思います。けれども私たちはもう近代芸術の世界には生きていません。だから、芸術にとって「役に立つ」とはどういうことかを、あらためて考えてみる意味があると思います。
・さて、クシシュトフ・ヴォディチコの一連の作品について言うならば、それらは確実に役に立っています。それはどういう意味でかというと、まずそれらは普通の意味で「便利な」ものではなく、奇妙なものであり、演劇的な要素を持ち、またどことなくユーモラスなものであることによって、人々の注目を集めるという意味においてです。それらが芸術作品であることは、社会的な問題に対する人々の通常の態度を変化させ、いわば「武装解除」させる力があると思います。「ディス・アーマー」は、まさに「武装解除」という意味でありながら、この装置自体はまるで現代的な鎧のようにも見える、そうしたあからさまな矛盾をも含めて、それは私たちの心を「武装解除」させるのです。「武装解除」は、文化的活動の究極の目標です。軍事的な武装解除だけではなく、心の武装解除のことです。芸術はそのために、絶対的な意味で役に立ちます。
・これまでクシシュトフ・ヴォディチコと話してきた中で、彼は時々日本の自衛隊のことに言及して、その英語名称である「セルフ・ディフェンス・フォース(self defense force)」というのは非常に意味深い言葉だと述べました。普通の意味においては、軍隊とは自国を守るために敵を攻撃する力です。しかし、相手を攻撃することと自分を守ることは、本質的には、同じことではありません。近代的・合理的な思考においては、攻撃は自己保存という目的の単なる手段です。しかし攻撃することは、同時に自分自身をも攻撃にさらすことになります。昔の人々はそのことをよく知っていました。古代の狩猟者は、自分たちが生きるために獲物に矢を放つとき、その矢は同時に自分自身にも向けられていると考えました。攻撃はその本質において常に対称的・双方向的なものだと知っていました。
・私たちが必要としているのは、本質的な意味において自分を守ることだと思います。「本質的な意味において」というのは、自分自身が行う攻撃や排除の行為、そうした行為を誘発する不安や怒りからも、自分自身を守るということです。この「自分」とは、「個人」のレベルでも、「社会・共同体」のレベルでも考える必要があります。そして芸術は、そうした意味における"self defense force"つまり「自己を守る力」だと言えるのではないかと思います。
・この点において、芸術が社会に言及することは、普通の社会的なメッセージや立場表明とは異なっているのです。芸術はたんなる社会的発話より「高尚」だという意味ではけっしてありません。世界の捉え方が端的に、根本的に異なっているという意味であり、現実的には、芸術の社会的発話は多くの場合無力であり、それは仕方がないのです。
さて、芸術と社会との関係という最初の問いに立ち戻って結論を述べるならば、芸術とは、本質的な意味において「社会を守る力」だと言うことができます。私たちの行うどんな行為にも芸術的な成分があり、私たちは芸術によって守られている、というリアリティがあるのです。常識的には、社会が芸術を保護していると考えられますが、それは美術館を建てるとか助成金を支給するといった実際的な意味においてのことです。それらはもちろん重要なことですが、制度やお金が芸術を可能にしているわけではありません。クシシュトフ・ヴォディチコの作品は、芸術が社会を守るためにどんな力を持ちうるかについて、私たちに重要な示唆と勇気を与えるものだと、ぼくは考えています。
・경청 해 주셔서 감사합니다.