秋田で「美の本質と善(道徳)」という、ちょっとすごいタイトルのシンポジウムに出演しました。このシンポジウムの背景には、数年後(小学校は2018年、中学は2019年)に実施される「道徳の教科化」ということがあります。「美と善」といった問題が真正面から扱われるようなことはあまりないので、参加しました。聴衆には現場の教員の方々もたくさんいらっしゃいました。そこで話したことを少し加筆修正して、ここに掲載しておきます。
まずはじめに、「本質」とは何かを簡単に説明しておきたいと思います。「本質」というのは「変化を通じて変わらないもの」のことです。何かがいろいろな仕方で現れる、と私たちが言うとき、いろいろな現れ方をするその「何か」が本質です。このように、本質とは何かを説明することは容易なのですが、その本質が何かを直接知ることは容易ではありません。
たとえば私たちは日常生活の中で、相手に合わせて様々に異なった人物として振舞っていますが、ではそうした相手次第の状況に拘束されない、私という人間の「本質」はどこにあるのでしょうか? 誰にも会わずに家でくつろいでいるときの姿が私の「本質」でしょうか? だとしたら、私の「本質」とはあんまりカッコいいものではないですね。そんな姿は人に見せたくない、まあどうでもいいものだと思います。
あるいはまた、「自分探し」というか、「本当の自分はどこにあるのか?」というような問いに悩む人がいます。「本当の自分」とは、いわば自分の「本質」です。しかし、この問いに悩んだことがある人はたぶんお分かりのように、それには答えがありません。実はこうした問いは、そもそも答えが出ないように仕組まれているのです。なぜか? 自分の「本質」を求める人は、それらしいことが書いてある本を読んだり、ああでもないこうでもないと生き方を試したりします。だからその人にいろんなものを売りつけて儲けることができるからです。つまり「本当の私」というのは、誰かがそれによってお金儲けをするために作られた問いなので、いつまでも答えが出ない方が都合がいいのです。
たしかに、人生や世界に関わる重要な問いには、簡単な答えは出ません。けれども、本質的に重要であるがゆえに答えが出ない問いと、誰かがお金儲けをするためにわざと答えが出ないように作られた問いとを区別しないと、大切な人生の時間を無駄にしてしまいます。そして「美」や「善」といった抽象度の高い概念をめぐる問いには、そうしたインチキな問いが多いのです。科学的な問題の場合にはインチキはすぐにバレてしまいますが、抽象的な命題というのは一見「何とでも言える」ような気がするからです。
では本当に重要な問いをどうやって見分けるのかということですが、そのためには古典的なテキストを勉強するしかないと思います。だから哲学や人文学は必要であるわけですが、それは古典に永遠の真理が書かれているからではありません。古典とは長い時間のあいだにいろんな人の眼にさらされ、生き残ってきたものだからです。それは自然選択の過程を経て種が生き残ることと同じです。私たちがどんなものであれ言語を用いて思考するとき、ここをこう行けばここに辿り着く、といった経験が何十年、何百年と蓄積され淘汰されてきた結果生まれた、純米吟醸酒というか、「良質の情報」が古典です。そして「本質」をめぐる問いは、そうした古典的哲学の最重要のテーマです。
それでは次に、「美の本質」について考えてみます。美に本質はあるのか? つまり、さまざまな時代や社会において美しいものや美しさの基準として現れる、そのさまざまな「現れ」を越えた、「美そのもの」といったものははたして認められるのか? という問いです。たぶん現代人の多くは、そんなものは存在しない、あるいは少なくとも、そんなものについて考えても仕方がないと思うように、条件づけられています。冒頭にこのシンポジウムのタイトル「美の本質と善」のことを「すごい」と言ったのは、現代では哲学系の学会のシンポジウムでもこんなストレートな、直球ど真ん中みたいな題名は付けないからです。まるで明治時代みたいです。でもそれは時代錯誤だという意味ではなくて、今の哲学研究者たちはもっと専門的で、現代的意義があるように見え、素人には分かりづらいような問題設定をしないと、研究費もとれないしプロとして恥ずかしいと思っているということです。
現代人が一般に「美の本質」といった問題を斜めに見たがる理由のひとつは、それが「政治的に適切でない」からです。古典ギリシアの彫像やルネサンス絵画のような芸術作品に美の本質があり、モダニズムや現代芸術は美しくないと言ったりすると、特定の文化基準を絶対化しているとして非難されます。私たちは「どんなものでもそれなりに美しい」というふうに言わなければなりません。たとえ自分は抽象絵画やコンセプチュアルアートなんてどこがいいのか見当もつかないと内心思っていたとしても、それらを美しいと言い評価する人がいるかぎり、それを「無価値だ」と断言してはいけないのだと、現代人は考えるのです(時おり政治家が芸術に対して意図的に「政治的に不適切」なーー現代美術なんてゴミだとか、文楽なんてくだらないとかーーをすることがありますが、それは多くの人が言いたくても言えない「ホンネ」を言うことで支持を集めるためです。人種問題のような深刻な話題でホンネを言うと命取りになるが芸術なら弱いから攻撃しても安全だという計算から、芸術がそうしたイジメのターゲットになるのです。)
美の本質についての問いに戻ります。現代人の多くは政治的適切性に拘束されており、「異なった文化や時代にはそれぞれ独自の美の基準があり、どれが正しくどれがどれより優れているなどということは言えない」という「相対主義」的な考え方に慣れています。だから「本質」という問題に対しては冷淡ですが、けれどもこの態度が間違っているわけではありません。少なくとも、たとえばミロのビーナスを指差して「これが美の本質だ」などと断言できないと考える点では、正しいのです。つまり美の本質とは、何かを指差して「これです」と言えるようなものではないという点では、正しい。けれどもこのことは、だから「美の本質など存在しない、あるいは考えて無駄である」ということと同じではありません。
美であれ、真理や正義、善であれ、もしもそうした理念に「本質」が存在しないとすれば、つまりそれらは歴史的、文化的な条件によっていかようにでも変化する幻のようなものだとすれば、そもそもそうした理念によって思考すること自体が、無意味になります。「いろんな時代や文化によってさまざまなものが〈美〉とされてきたけれども、〈美そのもの〉なんてどこにもないんだよ」という命題は、この命題自体にある大きな自己欺瞞が含まれているということです。なぜなら、ある特殊な条件下において何かが「美」とされるとき、そこにはすでに美の本質が経験されているからです。
これは個人的なレベルにおいても同じです。何かを「美しい」と言うとき、「ぼくにとってはね、他の人はどうか知らないけど」などということは、本当はありえません。たとえこの通りの言葉を付け加えたとしても、それは言った人が、自分が傲慢な人間だと思われないための社会的な配慮にすぎません。何が言いたいかとというと、かりにもあるものを「美」と判断するときには、それが誰にもとっても美であるべきだという「要求」が含まれているということです。そうでなければ、「美」という言葉を使うことができません。
つまり「本質」というのは、「これが本質だ」と言えるような何かではなくて、そうした「要求」が向かっている先にあるもののことです。だから、美に本質があるか? という問いは本当は意味のある問いではない。「本質」というのはあるとかないとか言えるものではなくて、私たちが言語を用いて思考するかぎり、その言語の構造の中にいわば最初から組み込まれているものだからです。さてここまでの議論を前提した上で、美の本質について、それを善(道徳)との関係から考察してみたいと思います。
よく「美と道徳の矛盾」といったことが言われます。美的には価値があるけれども、道徳的には認められない(あるいはその逆)といった事態です。ご存知のように、芸術作品の内容にはしばしば、残虐なあるいは性的な表現があります。犯罪が描かれることもあります。また個人の犯罪とはレベルが違いますが、戦争が美的に表現されることもあります。そうしたことが道徳的・倫理的な立場から非難される時、しばしば芸術側からは「表現の自由」ということが言われます。
けれども「表現の自由」とは法的な概念であって、美的な概念ではありません。芸術サイドからは、「こんな素晴らしい作品をわいせつ物とするなんてケシカラン!」と思うかもしれませんが、表現の自由というのは作品が美的に優れているかどうかには関係がありません。(法律的な観点から、高度な芸術的意図から制作されたものである場合、その猥褻性は相対化されるという解釈(「相対的わいせつ概念」)もありますが。)いずれにせよ本質的意味では、ぼくは「美と道徳の矛盾」というような事態は存在しないと思っています。
「表現の自由」というような意味ではなく、美は根本的な意味での「自由」と不可分です。このことは、すぐれた芸術作品においては「意図が透けてみえる」のはよくないとする通念にも現れています。もちろん作品は制作物なのですから、作者はある意図をもって制作するわけです。けれどもその意図のために適切な手段を選んで、それを完璧に実現していることが目に見える作品を、私たちは「よくできている」とは言いますが「美しい」とは言いません。たとえ意図があったとしても、作品はあたかも自由な活動の結果として出来上がったものと見えければならないのです。
そしてこの点が、善(道徳)と美とが切り結ぶ接点であるように思います。なぜなら、本来の道徳的行為も自由に基づいているからです。
「自由」という概念についてここで少し補足すると、前にブログにも書いたように、自由とは拘束がないという「状態」のことではなくて、自分はこれまでこんなことに拘束されてきたのか! ということがありありと分かる「認識」のことです。つまり自由とは「何でも好きなことができる」という気楽な感覚のことではなくて、自由という認識の前と後とでは世界の見え方が変わってしまうこと、その瞬間をきっかけにして時間の質が変化してしまうような「断層」のことです。
一般に道徳と呼ばれているものは、「こうしなさい、すべきだ」という強制・義務を含んでいるように見えます。けれどもそれは見せかけです。本来の道徳とは、義務や強制から最も遠いものです。社会や国家のために自分を犠牲にしたり、来世での幸福のために禁欲したりするのは結局のところ、あとでお菓子を貰うためにいまガマンしてお行儀よくする子供のようなもので、結局は計算ずくであり、美しくもなければ自由でもありません。
けれども、そういう行為を道徳的であり美しいものとして、社会規範として固定したがるひとがいます。その背後にあるのは支配の欲望です。支配の欲望が大きくなると、法律や警察権力によって人々の行動を外から規制するだけでなく、そもそも人々が自分の思い通りのことを欲望するように、心の内面をもコントロールしたいというようになります。そしてそうした人々によって「道徳」は悪用されてきました。「道徳」という言葉にアレルギーを持つ人がいるのは、この悪用の歴史があるからです。
美的な観点からみるならば、道徳もまた「美的」に現われます。つまり、人が「道徳」を口にするときには、その都度、それを口にする人の道徳的・人格的な質が否応なく露見するということです。子どもに「ウソをついてはいけない」と教える大人は、「ウソをついてはいけない」という客観的真理を子供に伝えているだけだと思っているかもしれませんが、美的な観点からすれば、その人の言い方、使用する比喩、発話のコンテクストのすべてが、その人がなぜそれを言っているのかという深層の欲望を、否応なく露呈してしています。したがって道徳の教科書には、それを策定し執筆し認定した人々の、権力欲と徳性のレベルが必然的に現れることになります。
だからこそ、道徳の本は美的に読まれるべきなのです。そのことによって、それは本当の意味で道徳の本となるからです。 そうした批判的で反省的な読解は高度なものであり、子供には無理だと思われるかもしれませんが、けっしてそんなことはありません。子供はたいていの場合、大人が何を言っているのかという内容以前に、大人はなぜそんなことを言おうとするのかという理由を感じています。それを言語的には言うことができなくても、身体的には了解しているのです。
だからぼくは、小中学校で「道徳」について話す時間を持つこと自体は、基本的には悪いことだと思っていません。ただ、現場の先生には思い通りの教え方を許してあげることが、必須条件だと思っています。つまり、道徳の教科書や指導要領を美的・批判的に扱うような自由の可能性を与えることです。教育の現場のを知らないのに勝手なことを言ってもうしわけないけれども、道徳についてぼくに言えるのはとりあえずこんなところです。