年末に横浜で、「幸福論再考」という集中講義をした。
前半はプラトン『ソクラテスの弁明』『国家』、アリストテレス『ニコマコス倫理学』、ストア派、エピクロス、ディオゲネスなどの話をして、後半は功利主義や仏教やスピノザの話をして、時々この講義をオーガナイズしてくれた室井尚さんとの対談授業のようなこともして、とても楽しい4日間だった。とりわけ初日の24日は、室井さんがこの集中講義に付けたキャッチコピー「クリスマスに、もう一度幸福について考える」そのままに、「この世にはカップルしかいないの? 」と思えるような横浜馬車道の「リア充」な光景を横目にしつつ幸福を哲学するという、ある種演劇的な状況にもなった。
人はどうして幸福について聞きたがるのだろうか?
幸福論といえば、アラン、ラッセル、ヒルティの著作を「三大幸福論」と呼ぶらしいことを、はじめて知った。たまたまこの3人の幸福論が売れてきた日本だけの呼び方らしい。これらについても言及すべきかと思い読んでみたのだが、どれも講義で取りあげて議論するような本ではなかった。
いや、これらの本に慰めを見出す人を非難する気は無いし、そこに書かれた主張が別に間違っているとも思わないのだが、何というか、書かれていることはその通りなのだろうけど、別にどうでもいい、と思ってしまうのである。それは、著者たちの意図はどうあれ、これらの幸福論が読まれてきた文脈が、近代産業社会に生きる人にとっての「癒やし」といった枠組を出るものではないからだ。現代の作家や哲学者たちの書く幸福論も多くは同じである。読書界において幸福論とはひとつの商品ジャンルを成している。だから無茶なことは言わない。読者がなるほどと感心し、ためになったと感じ、座右の銘にしたいと思うようなこと(だが実行できないこと。実行できてしまったら幸福論の需要がなくなるから)が書いてあるのである。
それに比べると、ギリシアの哲人たち、仏教、スピノザはそれぞれはるかに徹底していて、みんな言語道断なこと、無茶なことを平気で言う。もちろんそれらを現代人のテイストに合うようにやさしく解釈してみせることはできるのかもしれないが、そんなことをするのなら、そもそも講義などする意味がない。無理なものに無理なままに直面するのが思考するということだ。そのためには、少なくとも考えている間だけは、近代人であること、常識的な人間であることを捨てる。そしてこういう話題だけが、幸福論として議論に値するものである。過去の思想をとりあげる時、それらは「現代の私たちにとって」どんな意味があるのか?などと人は当たり前のように問うけれど、「現代の私たち」って誰なのか、「現代」とはそんなに一枚岩的に過去から断絶しているのかどうかは、必ずしも自明ではないのである。
クリスマスやお正月はたしかに現代における幸福のイメージを代表するのかもしれない。けれどもよく考えてみると、そうした幸福イメージを実際に共有できるのは、ある程度限られた社会集団だけなのである。そうした幸福感は、自分がその社会集団に帰属しており、それが世界そのものであるかのような安心感から生じるのかもしれない。けれども落ちついて周囲を見回してみれば、「現代」も「私たち」も安全安心なスフィアなどではぜんぜんなくて、そのいたる所には穴が空いており、そこから幸福論の通用しない外の世界が見えているのである。
お正月に牛丼のチェーン店でバイトをしている親戚の高一女子から聞いたのだが、接客マニュアルとしてまず教えられることは「あまり楽しそうにしないこと」だそうである。とりわけ年末や正月には、家族や家庭を思わせるような話し方や態度をとってはならず、最低限の愛想良さで接しなければならない。そこに食事に来る客の多くが、年末や正月にも家族と過ごすことのない単身者の男性だからである。ある店では、彼女がふだん見ることのないような人たち、歯がボロボロに欠けていたり、かなりひどい服装の男たちも訪れると言う。貧しいというより、自分の健康や身なりを気遣う家族がいない人々である。かれらは安いからその店に来るのではない。そこならひとりで食べていても人の目を気にする必要がないから来るのである。
ぼくは年末や正月に独りで牛丼を食べる境遇が不幸であるとは思わない。誰の目も気にせず独りで食べることは気楽であり、それを不幸だ可哀想だなどと言われるのは大きなお世話である。身寄りがなくても、明日に何の希望も持てなくても、だからもっと幸せになるよう努力しなさいなどと言われる筋合いはない。私たちが独りで食べるのであれ家族と食卓を囲むのであれ、クリスマスイヴを恋人と過ごすのであれ辛気くさい幸福論講義を聴いているのであれ、生きられている現実は本当はまったく同じなのである。リアルは充実していようが空虚であろうが同じリアルである。幸福は目指すべき目的などではなく、結果として与えられる恩寵にすぎない。幸福に振り回されないようにすることが、幸福論を考える意味なのである。