ホテルの廊下を、ひとりで歩いている。横には同じ形のドアが続いているけれど、自分の部屋以外のドアを開けたりすることはない。その時、ふと奇妙な疑いが頭をよぎる。これらのドアの向こうにも、それぞれ部屋が存在しているのだろうか? 本当はこれらのドアはみんな舞台の書き割りのようなものにすぎず、自分が開けるはずのドアの向こうにのみ、ホテルの部屋らしい舞台が「セット」されているだけなのではないだろうか? そもそもこの世界とは、すべてそんな風にできてきるのではないのだろうか? そう思った瞬間、前方のドアのひとつが開いて見知らぬ人が出てくる。ほら!とわたしは自分自身に言う、わたしが世界の本当に仕組みに感づいたので、それを隠すためにたった今役者がひとり送り込まれた…。
グループ「目【め】」(南川憲二、荒神明香、増井宏文)によるインスタレーション作品「たよりない現実、この世界の在りか」(銀座の資生堂ギャラリー、 2014年7月18日〜8月22日)を観た。観客はまず地下へ歩いて降りるように指示されるのだが、そこはまるで工事現場のように、ビニールシートで覆われ金属パイプで組まれた仮設階段の通路になっている。降りきると受付があり資料を手渡されるのだが、そこから先はまったくどこを見ても、ややレトロ調の上品なホテルの廊下そのものであり、有料テレビのカード販売機から洗濯物を回収するカートまである。けれどもその先には、そうした現実から踏み外す仕掛けも用意されている。いちばん奥の部屋の姿見と錯覚する部分は、本当はすべてが鏡像反転している隣の部屋への開口部であり、観客は「鏡の国のアリス」のようにそこを通り抜けて鏡の中に入ることができる。また最初は暗くて見えないのだが、その部屋に至る廊下の途中には横に抜ける通路があり、暗闇に目が慣れた後そこに入って行くと、突然「世界の破れ目」へと導かれ、そこには白っぽい惑星のような球体が、虚空にぼんやり浮かんでいるのである。
美術作家のKOSUGI+ANDO(小杉美穂子+安藤泰彦)が1980年代に制作していたインスタレーション作品のいくつかを思い出した。たとえば『FLASHBACK 』(アルチアム・ギャラリー[福岡]、1990年1月)。そこでも、鏡像反転やビデオの映像やカラーとモノクロの対比など様々な工夫によって、見慣れた室内空間が奇妙な非現実へと変容されていた。15年も前のことなので細部を憶えていないのだが、たしかぼくはそこで黒ダライ児さんと対談するという企画もあって訪れたのだった。それで展示にも何度か脚を運んだのだが、その際作者たちから聞いて忘れられないことのひとつが、ときおり観客のなかに、この空間にトラップされてしまい何時間も出られなくなる人がいるという話だった。その話が強く記憶に残っているのはたぶん、出られなくなったというその観客に自分が共感したからだろうと思う。作られた世界から出られないということ。この世界が作られたものであること、悪夢のようなものであることは分かっているのに、そこから醒めることができない。
「たよりない現実、この世界の在りか」を体験して、作られた世界にトラップされて出られないというこの感覚を、強烈に思い出した。とはいえ実際にはそこには多くの観客が訪れており、知っている人に挨拶されたりして、「いま自分は画廊に美術作品を観に来ている」という見当識を失うことはなかったのだが、ひとりでこの空間に迷い込んだらどうだっただろう? と空想した。1990年の『FLASHBACK』の空間は明るく照らされており、そこで再現されている部屋や調度品は物質でありながら概念でもあるような透明感を持っていたのに対して、「たよりない現実、この世界の在りか」の空間は薄暗く、すべては稠密で不透明な物質的リアリティを維持しており、概念的なものに昇華することは難しい。美術というより演劇性が高く、閉じ込められた感が強い。だからよけいに、あのおぼろげに浮かぶ惑星状の球体、本当はこの世界のいたる所にある開口部から垣間見られる宇宙の不気味な姿が、強く記憶に残ったのではないだろうか。