いまから思えばラジオの魅力とは、それが多くの人々が同時に聴取している公共放送だということは頭では分かっていながら、それでもスピーカーから流れる「声」を耳にすると、それがあたかもただ自分ひとりだけに語りかけているかのように思える、抗いがたい体感にあったのではないだろうか? 画像を伴うテレビになると、そうした「あなたにだけささやきかけている」という側面はな希薄になったのである。この"intimacy"(親密さ)が、「声」というものの特性であると思う。
やなぎみわの演劇作品(『ゼロ・アワー』)にもなった「東京ローズ」は、太平洋戦争の時、日本政府が英米の軍人に聴かせるために制作したプロパガンダ放送のアナウンサーである。特定の女性ではなく、複数存在したらしいその声の主が、その番組を聴いていた連合軍の兵士たちによって「東京ローズ」と呼ばれるようになった。もちろん誰か生身の人間が話していたには違いないが、メディアを介して何らかの作られた存在の声を聴く経験という面からみるならば、これはジェンダー化された人工知能の早い一例と言ってもいいと思う。
スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』では、「本物の」(というか物語の設定においては本物の)人工知能が、セクシーな声で乗組員に語りかける。このHAL9000の声を、ホモセクシュアルの恋人の声だと言う人もいるが、同性愛的傾向を持たない人にとっても、この声には性的魅力が感じられると思う。なぜなら、身体がないからである。ラジオにせよ、コンピュータにせよ、人工知能(的なるもの)の「声」が私たちに突きつける問題とは、なぜ身体の不在が(とりわけ男性にとって)強烈な性的憧れを喚起するのか? ということである。さらに言うなら、とりわけ男の性的ファンタジーの中心には、本質的に脱身体的な志向が潜んでいるのではないか? ということである。
スパイク・ジョーンズの映画『Her』は、この問いを真正面から扱った映画として見ることができる。離婚係争中の主人公セオドアは、自分のパソコンのために購入した新しいOS(オペレーティングシステム)と恋に落ちる。それが可能なのは、OSが女声で話しかけてくるからである。Siriなどを知っている現代の観客にとってこの近未来の設定はけっこうリアルに受け取れるが、それにしてもサマンサと名乗るこの人工知能はあまりに優秀であり、あたかも「フレーム問題」など存在しないかのようである。それはまあフィクションだからいいとして、重要なのはサマンサは人工知能だから身体を持たないということである。それが、最初は彼らの「恋愛」の障害になっているかのように語られる。サマンサは自分が見つけてきた生身の人間の娘をいわば「アバター」として使ってセオドアとセックスしようとするがうまくいかない(当たり前でしょ)。だが、表だっては語られないものの、しだいにあきらかになることは、彼女が身体を持たないことは実は障害ではなく、むしろ身体を持たない「声」だけの存在である がゆえに、強い性愛的憧れを喚起していたということである。
セオドアはある段階で、自分ひとりの恋人だと思っていたサマンサが、実は何千もの他のOSや人工知能と結びつき、何百人もの他のユーザーをも同時に恋人としていたことに、ショックを受ける。ネットワークにつながったOSなんだから、そんなことはじめから当たり前であるはずで、そんなことに驚くセオドアはあまりに情報リテラシーなさすぎだが、それでもこのくだりが少しでも同情をひくとすれば、それは彼らが「声」によって対話していたからである。「声」とは、身体ある存在を身体無き存在と結びつけるメディウムだと言えるだろう。人工知能と性という問題を考える時、そうした「声」の意味を避けて通ることはけっしてできないと思う。