先日ぬーちゃんも書いていたように、ぼくの前任校であるIAMAS(情報科学芸術大学院大学)は今年度から新しい場所に移転した。この大学では前期に、名古屋大学の秋庭史典さん、横浜国立大学の室井尚さんと理論系のオムニバスの講義を担当しているが、今年度のテーマは「ポビュラーカルチャーの美学」とした。これは、室井さんが代表者となり秋庭さんもぼくも参加している科学研究費のテーマでもある。また、文化庁主催の国際会議「世界メディア芸術コンベンション」の座長を3年間つとめてきたことも、今回の講義のテーマ設定に関わっている。もちろん「メディア芸術」と呼ばれているものは「ポピュラーカルチャー」と同じではない。けれどもマンガやアニメ、ゲームとファインアートを共に「メディア芸術」という概念で包摂せざるをえない「メディア芸術祭」では、「ポビュラー」なものとそうでないものとの境界とは何かを意識せざるをえなかったのである。
まず「ポピュラーカルチャー」という言葉自体、「メディア芸術」ほどではないにしても、どうもしっくり来ない用語である。「ポピュラーカルチャー」とはいったい何を指しているのか、そこに包まれる「カルチャー」なるものの具体的なイメージが、鮮明に浮かんでこない言葉なのである。もちろんAKB48やマンガ『美味しんぼ』が、「ハイカルチャー」でないことは確かである。けれども、ではそれらを「ポピュラーカルチャー」と呼べるのか? そういう呼び方をする積極的な理由があるのだろうか? あるいはこれもまた「メディア芸術」と同じように、とりあえず包括的な呼称として便宜上用いられているだけの概念なのだろうか?
ひとつには「ポピュラー」という概念の核となるポピュルス、大衆、人々という存在の輪郭が、現代社会においてはハッキリしないということがある。支配者、上流階級、知識人、等々の特権的な高級文化からは明確な仕方で区別され、集合的・無意識的でありながら高級文化に対して批判的に対峙する「ポピュラーカルチャー」なるものがあるのだろうか? そもそも、それが対峙すべき「高級文化」は存在するのか? とりわけ現代日本のような社会においては、「高級文化」とは何かということはきわめてつかみどころのない問いである。「ポピュラー」ではない文化はたしかに存在するのだが、それはかならずしも特定の「階級」と結びついてはいないからである。
このことは、たとえ「ポピュラー」を「ポップ」と言い換えても根本的には解決しないどころか、さらに混乱する。「ポップ」な要素は哲学や美学やファインアートのような「高級」文化の中にも浸透しているからである。一方、ポピュラーな文化はかならずしも「ポップ」ではなく、そこでは戦争や原発や人生上の様々なシリアスな問題も真正面から描かれる。
とにかく確かなことは、「ポピュラーカルチャーの美学」を語るためには、そこで語っている主体は誰なのか? という問いを避けることはできないということである。秋庭さんも室井さんもぼくも、制度上は「美学」の研究者であり、国立大学の教員である。そうした人々が、大学の「講義」という枠組でポピュラーカルチャーについて論じるとすれば、それはたんなる「ファン」や「マニア」として語るのではないだろう(現実には「ファン」や「マニア」として語っている大学教員もいるし、現代の大学はわりとそれを歓迎するのだが)。では、いったいどこが違うのだろうか? 文化現象そのものからは一歩身を引いた、学問的・批判的な視点があるからだろうか? だがファンやオタクの中にも、醒めた態度で分類や比較を行うことのできる人々はもちろんいる。だからそれをあえて「ポピュラーカルチャーの美学」などという大層な題目のもとにやらなくてもいいはずである。
誰しも、自分が強い影響を受けた文化的制作物について、それらをみずからの人生にとって決定的なもの、かけがえのないもの、それらが存在しないことなど考えられないものと感じるのは当然である。かくして、ゴジラの後ろ姿は「原光景」的に恐ろしく、ウルトラマンは人生の師であり、バカボン家の屋根に沈む夕日は魂の故郷であり、ドラえもんは終わらない日常に降臨した救済者となっても別に不思議ではない。これらは、別にぼく自身についての例をあげたわけではない(笑)のだが、ポピュラーカルチャーの「ファン」としてのぼく自身にも、たしかにそれらに相当する特定の文化的対象がある。けれども一方、自分が理論的な思考の習慣を身につけたことの大きな利点は、そうした「かけがえのない存在」、すべての前提となる文化的対象が、実はなくてもよかったもの、あるいはまったく別なあり方をしていたかもしれないものとして考える「自由」を持ちえたことだと思う。
たとえ批判的なことを言ったとしても、当該の文化的対象が存在する必然性を疑うまでに至らなければ(つまり、「いろいろ問題はあるけど、やっぱり〇〇っていいよね!💚」といったセンテンスで議論を終結することができるのなら)、あなたの言説は社会にとって「安心・安全」であり、嗜好を共にするファンの共同体の中で幸せに生きることができる。けれども理論的に考えるとは、こうした「居心地の良さ」をむしろ束縛と感じ、世界はまったく異なったるあり方をしていたかもしれない、という可能性に賭けることにほかならない。ぼくは何も全ての人に、共同体を捨てて隠者のように生きることを要求しているのではなく、ふだんは「ファン」として生きていたとしても、ある瞬間はそうした自己を捨て去り、自分が愛して止まないものは本当はゴミだったのかもしれない、と考える思考の自由を行使してほしいだけなのである。
そんなようなことを中心に、新しいイアマスでの講義第1回目では話した(つもりである)。環境も新しく、大部分は昔のイアマスなんて知らない一回生に対して話したので、どれくらい伝わったのかわからないけど、講義はとても楽しくできた。