哲学者の話は「プレゼン」ではない、とツイッターで宣言したら、そんなん居直りでしょ!という反応があり、まあ"Great!"(喧嘩上等)であるが、何も言わず無視するのもつまらんので、ちょっとだけ説明してあげる。ツイッターではちょっと短すぎるのでここで。
ようするにポイントは、逆に「すぐれたプレゼン」なるものの正体は何か? ということなのである。専門家を前提した学会発表であれ、一般聴衆を前にした講演であれ、すぐれたプレゼンとはその場の共同体の全体的な関心や傾向などをリサーチし、またリアルタイムでその場の空気を読んで、適切に内容を配置し、すぐ使えるキーワードを提供して、その後もみんなが話題にできるようなエンターテイニングな話をする、ということである。
といってももちろんそれはエンターテインメントに終わるわけでなく、科学研究のプレゼンの場合には、後々批判や議論の材料になる話題を提供するわけだから、もちろん有意義な活動ではあるのである。そのことの価値を否定するつもりは毛頭ない。問題は、私たちの認識活動のすべてがことごとくそうしたフォーマットに納まるものではないという、当たり前の、基本的事実である。
たとえば「TEDカンファレンス」のようなものを見ると、ほんとうにすごいなぁと正直思う。とても面白いし、ためになる。自分にはとても無理と思う。英語も下手だし。でも同時に、なんというか、どれを見ても全部おんなじにもみえるのである。どんな新しいアイデア、新発見、意外な着想、ユニークなキャラクターであっても、たしかに知識としては知らなかったことだけど、本当はぜんぶ知ってたというか、結局はすべて同じではないか、というような感じ。
これが「すぐれたプレゼン」という理想の正体だと思う。何でも入るけど入ったら何でも同じになってしまう容れ物。哲学者の話は「提示」ではなく「誘惑」だと言ったのは、人をそういう容れ物それ自体の外へと導くような言語活動という意味である。このテキストもその意味で誘惑だが、誘惑という言い方が誤解を招くなら、「プレゼント(贈与。人類学的な意味での)」と言ってもいいかな。哲学の話とは、「プレゼン」ではなく「プレゼント」。けっこうキーワードとしても使えるんじゃないかな……ダメか(笑)。