タイトルらしくなるように「高校生のための…」としただけで、特に意味はない。相手が高校生であろうが、学会の研究者たちであろうが、言葉遣いに少し配慮することはあっても、基本的に言うことは同じである。[2]としたのは、去年もちょうど今頃高校生が講義の見学に来て、それをきっかけにこういう文章を書いたからだ。
さて今年の美学講義では、これまでカントの美的判断の分析論について話をしてきた。だから高校生が来てもその続きをする。今週水曜日はちょうど、美的判断力の批判の部分を総括して、目的論的判断力の批判へと移行するところである。
カントによる美の分析論が多くの人にとって現実離れしたものにみえるとすれば、それはカントの『判断力批判』が、私たちが日々実際に行っている「美的判断」を観察しその仕組みを説明している本だと誤読することから生じる。だから美の判定が一切の「関心」抜きなんて、そんなのありえないでしょ? となる。
もちろんそんなこと、実際にはありえない。でもカントの批判哲学というのは、私たちが現実に行っている行為を記述するものではないのである。それはいわば、「およそ『美的判断』なるものが存在するなら、それはこういうものでなければならない」と要求しているのである。その意味では、私たちが実際に「美的判断」だと思っている判断のほとんどが実は美的判断ではないとしても、仕方がない。
いや、むしろ私たちはカントの言う美的判断などほとんどしていないのだと考えた方がすっきりする。日常生活においてはもちろん、芸術学においても美術史においても、美的判断などほとんど行なわれていない。そこで扱われる美的対象や芸術作品の、実在性や意味は最初から前提されているからである。概念に媒介されない美的判断など行っていたら、そもそも学問的認識など成立しないだろう。
そう、まったくその通りなのだ。カントは美の「学」など原理的に存在しない(美の批判[クリティーク]だけがある)と言っている。その意味では「カント美学」とはまことに皮肉な言い方である。「美学」という専門領域が存在するのも不思議である。その学問における古典的なテキストが、その学問は存在しないと述べている——こんな学科はあんまりないだろう。でも、それが美学のいいところだ。この逆説の魅力からぼくは「カント美学」に惹かれた。
美的判断の問題は、「判断」一般の原理的な問題に通じている。というのも、やはり私たちが現実に「判断」と呼んでいるもののほとんどは、何らかの既存のルールを個々の事例に適用する手続きにすぎないからである。それは「規定的判断」だとカントは言う。それに対して、美的判断を含む「反省的判断」においては、ルールを明示することができない。個々の判定を通して、それ自体としてはハッキリ知りえないルールが、何となく指さされているような感じなのである。
やはりこんなのも、現実社会ではふつう「判断」とは呼ばれない。こんな判断では「説明責任」が果たせないからである。しかし、判断が「判断」であるなら——つまり判断が認識上の独自の意味を持つなら——私たちはこの「反省的判断」の問題に直面しなくてはならないのである。
このような、ある意味では言語道断というか、とうてい「パワポを用いて要点を明確に図示するプレゼン」などには原理的になりえない問題を、聴衆を前に七転八倒しながら(というほどでもないが(笑))語ることができるかというのが、美学講義の(パワーはあるかどうか分からないが)ポイントである。