前回の[5]で最終回としてしまったので、これは補遺にしよう。
いろんなことを書いてきたが、ブログの記事というのはいろんな場所で、かぎらた時間で書いているために飛躍や極論もあり、基本的にフラグメンタルなテキストである。ブログの文章とは本質的に議論ではなくアフォリズム(箴言)である。そしてそこがいいところだと思う。
なぜならすべての言語活動の根底には、アフォリズム的なものがあるからである。語と語、センテンスとセンテンス、パラグラフとパラグラフとの間は、つながっていると同時に断絶しており、そこには何もないスペースが存在する。このスペースがあるために、「読むこと」は躓き、ときには不可能になったりするが、しかし同時に、このスペースが「読むこと」を可能にしてもいるのである。
言語活動が本質的にアフォリズム的であるために、その一部をとらえて誤解される危険から逃れることはできないのだが、多くをゆっくりと読めば、つまらない誤解は自然に解消してゆく。「読むことの変容」というこんな短いエッセイでも、全文をゆっくりと繰り返し読んでもらえば、ぼくがそんな極端な主張をしているわけではなく、わりと当たり前のことを言っているだけだということが分かるだろう。
問題は、「多くをゆっくりと、繰り返し読むこと」を、多くの人はあまり大事だと思っていないということである。これは電子メディアの発達によってそうなったというわけでもなく、印刷メディアの時代だって同じだった。すでに19世紀、新聞の登場によって、「読む」とは「短く要約されたものをなるべく速く、一度だけ読む」ことへと変容していた。
そうして変質した「読むこと」によって隠されてしまうのは、言語のアフォリズム的な本質だ。「速読」が読み落とすのは言葉と言葉の間にある間(ま)、空虚なのである。読むこととは、そうした空虚を感じ、常に読むことの不可能性と直面する行為なのであり、それによってはじめて、読むことでありうるのである。読むことの可能性は、その行為がいつも読むことではない何かによって補綴されているという事実の中にある。
だから「ハイブリッド・リーディング」というのは電子化によって新しくもたらされた問題ではないとぼくは考える。リーディングとはその始まりから、常に既に、ハイブリッドであったからである。