ニュースを見てなくて人から聞いただけの話なのだけど、ノコギリはひどいよね。いくらなんでも。ナイフならまだ救いがあったが、ナイフじゃなくてノコギリというのは、とうとう来るところまで来た、と思わせる。
さて、マザコンなのでまたママの話題でもうしわけないけど、昭和5年生まれの母は少女時代、あこがれの映画スターはぜったいトイレになんか行かないと信じていたそうだ。人間なら排泄しないはずはないと理屈では分かっているのだが、それがありえないということは、つまり映画スターとは人間じゃなかったということである。神様だったのである。
でもそんなことは当然で、母は小学校時代、昭和天皇の行幸を道路の脇に整列してお迎えしたのだが、絶対に顔をあげて見てはいけないと言い渡された。みたら「眼が潰れる」※と。なぜなら天皇陛下は神様だからである。神様と、神様がまとうアウラとはどういうものか、子供の頃から知っていたわけだ。
AKB48のようなアイドルは、とても現代的で身近にみえるかもしれないけど、それでも戦前の映画スターや歌手から、1970年代のアイドルを経て、連綿とそのアウラを受け継いでいる。「アウラ」って何か知らない人はとりあえず「どんなに近づいても残る遠さの感覚」くらいに理解してください。
アウラがなければアイドルではない。だから本来、アイドルに触れることは不可能なはずなのである。だからアイドルと「握手」など原理的にできないはずなのである。
でも現実には「握手会」などがあった。それは、いわばもうギリギリの状況なのだけど、アイドルと握手したファンはいわば、「いま自分が触れたのは憧れのあの娘の手なのはずだけど、本当はあの娘の手に触れることなどありえない」というジレンマを抱え込むことで、なんとかバランスを保っていた。
それが壊れたわけだ。ノコギリが、最後のアウラを断ち切ったから。
※ これは子供の頃母に何度も聞かされ、ぼくにとって言語的なトラウマのようになっていた表現である。それは、神(である天皇)を直視したらバチが当たって「目が潰れる」などと、小学校の教師が生徒に教えていたことの中に、(現代の「君が代」強制に通じる)どうしようもなく汚れた心性を感じたからだ。表面上はひたすら天皇への崇敬を教えるようでありながら、実は天皇そのものをも愚弄する表現なのではないのか? ——この話を聞く度にそう感じた。
数日後、ぼくのブログをよく読んでいただいている画家の末冨綾子さんから、「恵まれた」家庭で育ったいまの若い人たちには、この表現の背後にある残酷な文脈、失明した人間にとって、それが(ナイフで刺されるのではなく)まさしくノコギリで挽かれるような実感を伴う表現だということが、伝わらないのではないか? というご指摘を受け、たしかにその通りだと思った。
ぼくは「差別用語だから使ってはいけない」などとは考えないし、人を傷つける言い方だから避けるべきとも思わない(そんなことを言ったら、視覚障害を持つ人にとって「見る」ことをめぐる大量の比喩のほとんどは多少とも傷つけるものである)。けれどもそれらについて個別的に考えることは重要だと思い、この注を付加した。ぼくのブログはコメントができないようにしてあるので、何か意見がある方はメールしていただければフィードバックします。