昨日は大学院の演習で、修士課程2回生の研究発表があった。デリダの『グラマトロジーについて』を読み直して、その「原エクリチュール」という問題的概念を、隠喩という観点から再解釈しようとするなかなか興味深い試みだったが、残念ながら院生や学生たちの反応はもうひとつだった。関心がないというより、どう反応していいか戸惑っている、という感じだった。音声中心主義、明証性、現前の形而上学、言語の線形性といったことを、なぜ批判し「脱構築」しなければならないのか、そのそもそもの動機が分からない、という感じだと思う。
この間書いた「自由とは何か」という小文で、自由とはこれまで自分が不自由だったことを自覚することだと書いたら、予想外にたくさん反応があった。この「不自由」というのは、政治的な状況や個人の人生における不自由という意味だけではない。「読むこと」においても不自由な状態というものはあり、それを自覚することによる自由の可能性もある。そしてそれは些末なことではなく、政治的な自由や人生上の自由と同じくらい重要なことなのである。
デリダの『グラマトロジーについて』はずいぶん読んでいなかったが、昨日の演習発表によってその重要性をあらためて確認できた。たとえば書物とは「シニフィアンの全体性」であるが、そのことはそれに先行するシニフィエの全体性という理念を前提し、それによって書物はいわば「可視化されたシニフィエ」※となることなど。私たちが「書物」をたんなるモノとは違うと感じるのは、それが神の意図、作者の精神、物語世界、思想的源泉、等々を具現する特権的な事物と考えるからであり、たとえテキストはそれらの秘密を直ちに私たちに明かしてくれなくとも、そのエクリチュールの彼方には必ず透明な意味の全体性が存在しているものとして取り扱うからである。テキストの線的な流れを辿りながらそうした全体性を目指して進むこと——これがこれまで考えられてきた「読むこと」であった。そして私たちは「読んでいる」と思ってきた。
電子的読書、あるいは紙と電子のハイブリッドという状況が進展することによって、「シニフィエの全体性」として特権化された「書物」という概念は、否応なく解体してゆくであろう、とぼくは思う。だがそうした変容は、今はまだほとんど始まったばかりである、とも思う。前にも述べたように、今はまだ電子は紙を模倣しており、たとえ電子的に実現されたものであっても、それはまだ概ね印刷された伝統的書物の「進化形」であるかのように、私たちは考えているからである。そして「読むこと」を売る市場の力もまた、電子書籍を「書籍」と見なすように強く作用していることも重要である。
だが電子的テキストは次第に「書籍」という概念を溶解させてゆくことであろう。なぜならデジタル情報はその非物質としての本性上、特権化されたシニフィエという役割を担いきれないからである。現状の電子書籍が「書籍」に見えるのは、それらが紙に印刷された書物を指示するシニフィアンとして暗黙のうちに機能しているからである。だが、やがてこの機能は衰弱し、ついには消滅してゆくだろう。その時はじめて私たちは、伝統的な「書物」や「読むこと」がいかに不自由な概念であったかを、理解しはじめるのではないだろうか? そしてまた、私たちは自分が「読んで」きたと思っていたけれども、本当は電子以前の時代においても実は私たちは「読んで」などいなかったということも、自覚されるのではないだろうか?
前にも述べたように、ぼくは紙が電子にとって替わられるとも、書物という形式が消滅するとも考えていない。むしろ逆に、電子的環境の進展に伴って、紙の持っていた本当の意味、紙の上に「書くこと」や、印刷された文字を「読むこと」の本来の意味があらわになってゆくと考えている。さて本日午後の日本記号学会大会では、杉浦康平さんの「アジア的ブックデザイン」についてのお話をうかがう。もちろん杉浦さんは、紙の書籍を念頭においてお話しされることだろうと思う。ぼくはそのお話を、「読むこと」の未来的変容という観点からうかがうつもりである。
※「可視化されたシニフィエ」という言い方はデリダ自身のものではなく、発表者である大学院生樫田祐一郎君による秀逸なパラフレーズである。