1月に台東区で展示した「BEACON 2014」が、明後日(3月27日)から4日間、京都の元立誠小学校でも展示される。東京と同じく、「パノラマ・プロジェクト」の一環として、やなぎみわ+唐ゼミの演劇や、三輪眞弘のパフォーマンスと同時に発表するものだが、東京版がわずか3日間と美術展示としては異例に短い期間だったので、京都ではがんばって1日前から始めて4日間とした。
当初の目論見では、東京のために制作したバージョン「BEACON 2014 memento」をそのまま持って来る予定であった。とにかく1月末の東京が終わってから期間が短く、しかも2月、3月は大学勤めのメンバーにとって年度末や入試業務と重なって身動きがとれないため、京都版を新たに制作することは考えていなかった。考えていなかったというより、東京版の制作で考える余裕がなかったという方が正しい。
だが2月初めに集まって話し合ったところ、やはり「BEACON 2014 memento」をそのまま京都で発表することはできないだろうという結論に、全員が達した。このタイトルが暗示するように、これは葬儀場という特別な空間を意識して制作したものであり、別な場所に持っていくことができない。場所ということを無視して、たんに東京でやったことの再現だと割り切ればできるのかもしれないが、それならやりたくないと思った。
それで、無謀なことにゼロから作り直すことにした。コンセプトも、映像も、サウンドも。そのための方向性も話し合い、テキストも新たに書いた。それが「BEACON 2014 in flux」である。"In flux"というのは、変化と流動状態にあるとうような意味である。テーマは「水」で、川や海の風景を撮影し、それを立誠小学校の映像と混ぜ合わせた。テキストは「水」や「流れ」と「記憶」ということをテーマに書き、今度もまたサウンド担当の稲垣貴士さんが、それを読むぼくの声を使った音響を制作してくれている。
BEACON 2014 in flux
記憶する水
これは不思議な考えである
砂上の文字を波が消すように
水はむしろ、
すべての刻印を流し去るのではないか?
岩を摩滅させ、大地を浸食し
あらゆる鋭利な形態を
太古の同一性へと回帰させるもの
それが水ではなかったか?
水の記憶
記憶する水
「科学」が嘲笑うこの奇妙な観念に
なぜ私たちは惹きつけられるのだろう?
水は、たんなる物量ではない
その内部には
感知しがたい複雑な流れがあり
微細な波動や渦巻きやうねりが
たえまなく生まれては消えていく
記憶らしき活動が、確かにそこにある
水とは波立つ潜在性であり
透明な闇なのである
「万物は流転する[Panta Rhei]」
このことが真実であり
あまりに真実すぎてよそよそしいとすれば
それは流れを高みから眺めているからである
本当は誰もが、流れのただ中にいて
むしろ流れそのものなのである
記憶する水とは、私たち自身なのだ