「万能細胞」なるものをめぐって、人間の巨大な欲がうごめいている。
原初の万能性に人は憧れる。赤ん坊の肌の柔軟さとか、幼児や子供にとっての、無限の可能性に開かれた未来とかに。
未分化なものが万能性をもっているのは当たり前である。そして未分化である当事者(子供)は、その「万能性」を、それほどいいものとは思っていないようである。子供は、一人前になりたいと思っている。早く大人になりたい、分化し特殊化して、つまり万能性を捨てたいのである。成長というのは万能性の放棄ということである。
万能性を欲望するのは、すでに分化し特殊化してしまった者(大人)である。彼らも、かつては未分化だった時があるのだが、それがどういう状態だったか忘れている。大人というのは、子供であることがどういうことかを理解できなくなった人間のことである。
それはともかく、細胞が思いがけない方法で万能性を回復するとしたら、それはとても面白いことであり、そのことを面白がるのは、たしかに子供の心である。
けれど、実現された万能細胞によって、若返りたいとか、死を回避したいとか、あるいは(さらに悪いことには)若返り死を回避したいと願う世界中の多くの人々からお金をとりたいとか——それは大人の欲望であり、まことに業の深いことである。
生命とは本来万能性をもつものである。そのことに迫る探究は本当に面白い。それも巨大なプロジェクトより、「あれ? できちゃった」みたいな試みの方が、たしかにずっと面白い。
それに対して、生命の万能性によって有名になろう一儲けしようと企む心性は、それ自体、生命の万能性からはもっとも遠いものであろう。