昨日「BEACON 2014 in flux」のアーティスト・トークで話したことの一部を書き留めておきたい。「パノラマ・プロジェクト京都篇」のために制作したこの作品のテーマに関わることである。
1999年以来発表してきた作品「BEACON」に一貫するテーマは「記憶」と「闇」である。「闇」というのはたんなる暗闇という意味ではなく、視覚に原理的に伴う不可視性、可視性そのものを可能にしている不可視性といったことだ。人間にとって何かが「見える」のは、世界のほとんどが「見えない」ことによって可能になっているということである。「記憶」についても同じであって、コンピュータのメモリとは異なり、生きた存在にとっての「記憶」とは、それが意のままに呼び出したり保存したりできないことによって可能になる経験であるということである。それがこの15年間「BEACON」に通底してきたコンセプトであった。
さて、今回の「BEACON 2014 in flux」では、そこに「水」「流動」という要素が付け加わることになった。この作品のために書いたテキストを読んでいただけば分かるように、「水」はふつう記憶ではなくて忘却(「水に流す」という表現から分かるように)のメタファである。だがそれは、書かれた文字や電磁気的に蓄積された情報のようなモデルで「記憶」を考えるからだ。けれども記憶の生きた経験とはそれとは異なり、水の運動のようにたえざる流動と変化の中にあるのではないか? それで「水の記憶/記憶する水」というフレーズからテキストを書き起こした。
「記憶する水」というのは、新川和江さんが2007年に出された詩集のタイトルでもある。けれどもこの作品のコンセプトとしては、そうした詩的な表現としてだけではなく、もう少し即物的な意味での「記憶する水」についても考えていた。つまり、物質としての水が本当に記憶能力を持つという考え方である。
歴史的には「ホメオパシー」と呼ばれている理論が有名である。これは19世紀の始め、サミュエル・ハーネマンというドイツの医師が提唱したものだ。「ホメオパシー」というのは、「似たものが似たものを治す」というような意味である。ある毒素が原因となっている病気を、その毒素を極端に希釈した水をしみ込ませた砂糖玉を摂取することによって治療する。どれくらい希釈するかというと、10の60乗というようなオーダーであり、当然こんなに薄めてしまったら、確率的に元の水溶液に溶けていた物質の分子は一個も残っていない。つまりただの水である。それでも「効く」のは、水がその物質を記憶しているからだというのである。
いうまでもなく現代の科学的見地からは、そうした考え方はいかがわしい、迷信に等しいものとみなされている。たとえ「効いた」としてもそれはいわゆる偽薬(プラシーボ)にすぎないものと思われている。だがそれは、200年前の疑似科学にすぎないものではない。ホメオパシーは今でも運動として世界中に少なからぬ信奉者を見出しているし、「記憶する水」という考え方は20世紀においてもその新たな後継者を見出している。中でも有名なのはジャック・バンベニストというフランスの医学研究者で、この人はやはり極度に希釈された水が、もはや元の物質が一分子もその中になくても抗原抗体反応を引き起こすという論文を出しそれが『ネイチャー』誌に掲載されたという「スキャンダル」がある。
ぼくは、オカルトや疑似科学の支持者とかマニアではまったくない。オカルト的な匂いはどちらかというと苦手である。ただ、そうした非正統的な考え方に対して、科学の「信奉者」がするように、有害で反啓蒙的な思想だとして非難・攻撃したり、マスメディアがするように軽蔑し揶揄したりする動機を持てないだけである。「記憶する水」のような不思議な考え方が、これほど非難され否定されてきたにもかかわらず、なおも人々を惹きつけるのはなぜだろうと思うからだ。そうした事実の背後には、人間の「愚かさ」というだけでは片付けられない何らかの理由があるのではないか。そう考える方が、むしろ科学的な態度のようにぼくには思えるからである。