日本記号学会から刊行された 叢書セミオトポス8『ゲーム化する世界—コンピュータゲームの記号論—』が、うれしいことにけっこう話題になっているらしい。もちろん好評ばかりではなく、中にはこんなものゲーム研究としては使えない、という厳しい批判もあるのだが、批判されたり悪口を言われるのは、もちろん本にとっていいことである。その第一部で、70年代の「マイコン」ゲーム文化と80年代の「ファミコン」ゲーム文化の立役者ともいうべき、株式会社ハドソンの創設者工藤裕司(三遊亭あほまろ)さんとぼくの対談が載っている。
その始めにぼくは、自分はゲーム研究者でもないしゲーマーでもないと断っているのだが、それでも本が話題になると、ゲームについて意見を求められたり、原稿を依頼されたりする。ありがたいことではあるが、ゲームについて何か新しい知見を求めてくる人に対しては、ぼくがゲームについて言うことは、いわゆる学問的なゲーム研究とはほとんど関わりのない、気楽な感想にすぎないと断らなければいけない。それではぼくは「ゲーム」という問題をどのように理解しているか? ひとまず次のなつかしい(ゲーム史においてはまだマイコン時代、そして大阪の万国博覧会の時代)、歌謡曲の一節を聴いてほしい。
恋人にふられたの よくある話じゃないか
[…中略…]
涙なんかをみせるなよ 恋はおしゃれなゲームだよ
日吉ミミ「男と女のお話」(作詞:久仁京介 作曲:水島 正和 昭和45年)
「○○なんてただのゲームさ」と人が言うとき、それはもちろん「○○とはゲームである」という陳述を行おうとしているのではない。むしろ反対に、その人は「○○」とは到底ゲームなどではないと確信しているからこそ、そこで経験した苦しみを遠ざけるために「○○なんてゲームだ」と言うのである。つまり「○○とはゲームである」というのは、苦痛の直接性から(絶望的に)離脱するためになされる発話なのであり、「ゲーム」とはヘーゲルの『精神現象学』ふうにいえば、言語の介入によって意識が自分自身を他者へと外化する契機にほかならない。…いや、やっぱりこれではしっくり来ないので言い直すと、「ゲーム」とは、誰かを自己意識の直接性から連れ出すための、誘惑の言葉なのである。
たしかに日吉ミミのこの曲も、ある種の誘惑の歌だった。失恋して寂しがっている女を、その弱みにつけ込んで男が言い寄るという、まあこれも「よくある話」のシチュエーションである。だがこの誘惑が成功しそうにみえるのは、そこで男が「ぼくなら君をふったりなんかしないよ」などと明るく元気づける(そういう男は絶対にモテない)のではなく、「恋はおしゃれなゲームだよ」と言いながら、自分自身もそれは本当はゲームでないことを知っている、というメッセージを確実に伝達しているからである。つまり、ハッキリいうなら「そこでゲームと呼ばれているもの」から端的に救済される可能性はない、と言っているのである。
ようするに、ヘーゲルではなくてキルケゴールなのである。絶望から救われるのは絶望によってしかないのであり、「むかしを忘れてしまうには すてきな恋をすることさ」(同上)。「ゲーム」というのはまさにこの事態、過去の不幸な恋は新たな恋によって上書きされるしかないという反復を言い表す言葉であると、ぼくは基本的に理解している。別に「ゲーム」という言葉だけが問題なのではない。「ゲーム」以前には、恋も人生も「芝居」だ、といった言い方もあったが、この「芝居」というのも似たようなことだ。つまり、虚構ではないものを虚構と呼ぶ、ということである。この言語操作自体は学習すれば誰でもできるのだが、重要なことは、そこで何かを「ゲーム」「虚構」と呼んだ時、それは本当はゲームでも虚構でもないという実感が、どれだけ強く維持されているかどうかということである。
どうしてそれが重要かというと、そうした分裂を抱え込まないかぎり、誘惑は成功しないと思うからである。ぼくが学問的なゲーム研究、とりわけ英米的な言語分析に基づいたゲーム研究を読むときに抱いてきた違和感は、そこでは「現実」と「虚構」とがあまりに単純に前提されすぎているように思えることから来るのだろう。といっても、そうした研究がつまらないとか無意味だとか言うつもりは毛頭ない。よく出来た分析はそれこそひとつの言語ゲームとして優れており、知的な興奮を引き起こすことはたしかである。ただ、それでは誘惑は成功しない、つまりモテないと思うのだ。ふざけたことを言っていると思う人もいるかもしれないが、モテることはとても大切で、それはいわば自然から「子孫を残してもいい」(本当に残すかどうかは別としても)と言われていることだからだ。
学問研究においても究極的に大切なことは、散種と存続を目指すことであるとぼくは信じている。つまり短い時間の中で同業者(現状では主として男)の間で誉められたり話題になったとしても、同業者以外の人々の間に広がっていったり、何世代も後に繋がるのでなければ、それは一時のお祭り騒ぎにすぎないと思う。だから、ある意味気楽に構えていればいいとも思うと同時に、自分の理論的発話にはたしてどれほど深い伝達力があるのかと、つねに気にしていなければいけないとも思うのである。