今晩、学内交流のための「京大サロントーク」という催しで、「見えない美術」という話をする。いろんな専門の教員が、最先端研究の紹介や、専門外の関心をひく話題、生活に役立つ知識などを気楽な雰囲気で話すという、学内サイエンスカフェみたいなものらしい。それでぼくは美術の話をすることにしたが、「現代美術」とテーマ化されてしまうと、「難解な現代美術を分かりやすく」みたいなつまらないことになるので、とりあえず「見えない美術」と名付けてみた。
「分かる」か「分からない」か、といった以前の話にしたかったからである。美術を「分かる」ことはある意味簡単というか、ぼくにとってはどうでもいいことだからだ。何よりも「美術が分かる」なんていうスノッブで威圧的な言い方自体がとても嫌いであり、美術が分かる人たちとはなるべく関わり合いになりたくない。それに対して、美術の「見えない」側面——それを真剣に受けとめ考えることは誰にとっても、つまり普遍的な意味で重要だと思っているのである。
さてさて、美術が「見えない」とは何ごとだろうか? 見えるから美術ではないのか? まずはこうした素朴な疑問から出発する。
いま豊田市美術館ではフランシス・ベーコン展が開催されている。ベーコンの作品は絵画だから、当然眼に見えているはずだ、と私たちは思う。けれども本当にそうだろうか? 私たちがあれらの絵の前で見ているものとは、いったい何なのだろうか? ごく普通の意味では、それらは写真がブレたような、奇妙にねじ曲げられた、不気味な肉塊のようなイメージである。ベーコンの絵ではどうして人間の顔や身体があんなに歪んでいるのか?という素朴な問いかけに対して、画家はかつて次のように答えた。“Painting is the pattern of one’s own nervous system being projected on canvas.”(「絵画とはその人の神経系がキャンバス上に投影されて生じる形である。」)この言葉をどう解釈するかはともかく、少なくとも彼の絵画は、何かが歪んで見えているのではない、ということだけは確かなようだ。
ベーコンは、ガラス入りの額装で絵を見ることを好んだようである。それは絵を保護するためではなく、ガラスによって観る者との間に距離ができるからだという。とりわけ暗い色調の絵は、展示したとき反射が起こって気になるので、ガラスを入れることを好まない人も少なくない。だとするとベーコンがガラスを好んだのは、観客自身の反射像が絵のイメージと重なり合う視覚効果を狙った(これはいかにも「現代美術」っぽい発想である)のではないか?と勘ぐる人もいるかもしれない。けれどもまったくそうではないのである。実際そうした質問に対してベーコンは、反射なんてない方がいいにきまっている、将来反射しないガラスが開発されればいいだけのことだ、と答えたらしい。ガラスは視覚的にというより物理的に作品と観るものの間を遮蔽する。私たちは見えるものを透して見えないもの(「神経系のパターン」)を経験する。それが絵画である。
それから、マルセル・デュシャンの「噴水」(「泉」と訳されてきたがこれは不適切な訳だという篠原資明氏の指摘に同意する)。これこそ見えない美術の嚆矢ともいえる事件であろう。先日一回生たちと京都国立近代美術館に所蔵されている「噴水」その他のレディメイド作品を観に行った。そこに展示されている「噴水」はもちろん(1960年代にデュシャン自身がコミッションした)レプリカである。1917年に物議をかもした「オリジナル」はすでに失われている。学生の一人が、もしぼくがこれと同じ製品を持ってきて置き換えたらどうなりますか?と質問した。いい質問である。その場合は君が作者になる、かどうかはともかく、そうした問いを考えることによって明らかになるのは、私たちが「見ている」ものは作品ではないということである。作品は見えない。
この「見えない」ということをちゃんと受けとり考えることが重要である。ぼくは現代美術のファンではないし、制度としての現代美術を守ろうとも思っていない。だが、現代において人が表現行為に真剣にコミットするとき、いくつかの作品形態や行為に行き当たることは必然的だと思っている。同じように、ぼくは哲学や美学といった特定の領域に関心があるわけではない(若い時は少しはあったのだがもうめんどくさくなってしまった)。けれども、美術についてちゃんと考えようとする時、とりわけその「見えない」という側面について理解しようとするとき、いくつかの哲学的・美学的議論にどうしても行き当たってしまうのである。ぼくにとって理論とは、そのかぎりにおいてのみ重要なのであって、作品について不必要に抽象的な意味付けをすることにはまったく興味がない。だから、難解なものを専門外の人にも分かるように易しく、などと考えて話したことは一度もないのである。
…と書いているうちに時間になった。そろそろ打合せに行ってきます。