NHK教育テレビの「0655」という番組で「たなくじ」というコーナーがあるらしい。毎週月曜日に、おみくじの札をもった爆笑問題の田中裕二の静止画が高速で移り変わるのを、携帯電話などのカメラで撮って、たまたま写った札でその1週間の運勢を占うという趣向である。さきほど、ある人から今朝「劇的大吉」が出たといってその写真を添付したメールをもらい、今週の幸運をおすそ分けしてもらった。
他愛ないアイデアではあるが、どうしてこれが「占い」として機能するのかという問題は、ちょっとしたメディア論的な考察を要求する。
いま発売中の叢書セミオトポス『ゲーム化する世界』には、2年前に記号学会大会で三遊亭あほまろ((株)ハドソン創業者の工藤裕司)さんと行った対談が収録されており、その最初の箇所でぼくは、1970年代のマイコンゲーム文化のことに言及した。マイコンは自作したりキットを組み立てたりしていたのだが、もちろん今のような立派なモニタなどはなく、数桁の数字や文字を表示できる蛍光管しかなかった。そんなものでどうやってゲームをしたのかというと、たとえば数字を高速で進めて行って、適当なところでスイッチを押して止め、その一の位の数値をサイコロの目とみなして双六を楽しむ、というような遊び方であった。
こんなものが「コンピュータ・ゲーム」と呼べるかどうかははなはだ疑問ではある(笑)が、よく考えてみるとこの仕組みは「たなくじ」とよく似ている。両者に共通するのは、片方には人間の知覚能力を越えた電子的な高速運動があり、もう一方にはシャッターやスイッチを押すといったスローな身体的運動があることである。プログラムされた超高速の動作から、それとは桁はずれに遅い動作が何らかの情報を切り出してくる——このことが重要であり、その点にこうした仕掛けが「占い」や「サイコロ」の代わりとして機能する秘密があるのだとぼくは考えた。
チャンス(運)は、プログラムやシステムの内部からは発生しない。チャンスとは、プログラムの動作がプログラム内に記述できないような力によって切断され、システムがその外部と接触する瞬間に生まれる。チャンスそれ自体は善悪の彼岸にあり、思いがけない幸運として訪れることもあれば、災害や事故のようないまわしい形で私たちを襲うこともある。けれどもこの世界に生きているかぎり、それが到来することは原理的に避けがたいことである。望ましくないチャンスの到来を、プログラムやシステムを整備することでなるべく抑えることは可能だが、絶対的な安心安全を実現するのは不可能だし、あたかもそれが可能であるかのようにふるまうのは病的である。
今の世界は、人々にプログラム的・システム的なパフォーマンスを高めることだけをひたすら要求しており、チャンスの到来に対する感受性を養うことをあまりに軽んじている、とぼくは考えている。そしてこれは非常にアンバランスな価値感であり、危険な徴候であると思っている。「京都ビエンナーレ2003」に掲げた「スローネス」もこうした考えから生まれたテーマである。また京大に赴任する直前に企画した「岐阜おおがきビエンナーレ2006」ではさらに真正面から「じゃんけん:運の力(Power of Chance)」を主題にし、アジアのメディアアートに注目する展示を企画した。この「運の力」というコンセプトについては、IAMAS 内のフリーペーパー「クロッカス」に、ビエンナーレ開催前の時期に4回にわたって連載エッセイを書いている。古いウェブに公開したような記憶もあるが、あまり人の目に触れることもないと思うので、参考のために以下に転載しておきたい。
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【連載その1 フランダースの犬】
「フランダースの犬」という話がある。日本では明治の終わり(1909年)に翻訳・紹介されて以来多くの読者を得、最近ではテレビアニメを通じて世界的に有名になった。原作は、ウィーダという筆名をもつイギリス人が1872年に書いた物語である。ベルギーが舞台であるが、ベルギーでもイギリスでも、誰もが知っているようなお話ではない。海外旅行が盛んになって、日本人が数多くアントワープを訪れ「フランダースの犬」について尋ねたのだそうだ。アントワープ観光局は最初何のことだか分らなかったが、あんまりたくさんの日本人が尋ねるので調べてみた。そうして、この名作が「再発見」されたというわけなのである。
なぜ、この物語は昔のヨーロッパではウケなかったのか? 十九世紀後半というのは「努力」や「進歩」が称揚された時代である。人間=人類はみずからの宿命を乗り越え、自己の限界を超えて進んでゆくべきだ!という輝かしい時代の幕開けである。それなのに主人公ネロ少年ときたら何だ? 自分の過酷な運命を抗うこともなく受け入れて、美しい魂のまま死んでゆく。そういう、ただただ可愛そうなだけの話なのである。そんなもん認められん!子供の教育にもよろしくない、と思われたのだろう。
日本の明治にも進歩という規範はあったが、同時に仏教的な無常感などの古い心性も残っていた。だから人々はネロの運命に涙して読んだ。さらに極端な「賽の河原」のような話すら、今でも日本人の心の深い部分に触れるのではないだろうか。いや、実はヨーロッパでも近代以前には、無垢な子供が死んでゆくというというただただ可愛そうなお話を、多くの人々は好んで聞いていたのである。その種の話に共通するのは、努力が何の役にも立たないという点である。救済は自己の努力によってではなく、お地蔵さんや天使がたまたま現れてあの世へと導いてくれる、という「偶然」によってもたらされる。
そもそも人間はなぜそうした話を聞きたがるのだろうか? 人生にはもちろん努力が必要である。けれども努力とはしょせん人間の営為であり、限界がある。頑張ってみなければ成果は期待でないが、頑張れば必ず報われるというのは妄信である。努力なしに成功することも、努力がことごとく何の実も結ばないこともある。そこに偶然の働き、運の力がある。だから、努力と運とのバランス感覚が大切なのだが、人間はえてしてわがままで、努力すればそれだけの見返りを要求する。ことに近・現代人はそうであって、計画を立て計算をして、その通りに事が運ばないと怒り出したりする。自分はちゃんとやっているのにと不平を言い、失敗を誰かのせいにしたがるのである。
「フランダースの犬」のような話、「賽の河原」のような話は、そうした驕慢をなだめ、やわらげてくれる。別な言い方をすれば、わたしたちの内部にある、運や偶然に対する感受性に気づかせてくれるのである。しかし、どうして運や偶然といったことがそれほど大事なのだろうか? それは究極的には、わたしたち自身の存在が偶然的なものだからである。どんな人も自分の生を計画的に選んだわけではない。この私は、気がついてみたら私だったわけである。私たちはみんな、この世界の中に「たまたま投げ出された」みたいなあり方で存在している。この認識は、自分に与えられた運命を受け入れるしかないという悲観的な宿命論に導くものではない。むしろその逆であり、自分はもしかしたらまったく違った存在であったかもしれないと考える余裕を与えてくれる。自分が、現にある通りの自分でなければならないような確たる根拠は何ひとつないと了解すること——これが運の力を知るということである。
【連載その2 もうひとつの、ウンの力】
「岐阜おおがきビエンナーレ2006」の最終日である10月15日には、東京医科歯科大学の藤田紘一郎教授をお招きして、講演と対談をお願いすることになった。「じゃんけん:運の力」というテーマ、そしてアジアのメディアアートへの注目という二つの柱をもつ今回のおおがきビエンナーレだが、その最後を飾るイベントになぜ、現代のキレイ社会の危険を訴える寄生虫学者、藤田先生をお招きすることにしたのか? 今回はこのことについて少し書いておきたい。
何か決めるのに困ったとき、私たちは「じゃんけん」をする。それでどんな結果が出ても「恨みっこなし」というタテマエになっている。なぜか? それは「じゃんけん」の結果とは人間の推量を越えた、おおげさに言えば〈宇宙の意思〉のようなものを表現していると、深層では了解されているからである。ゲームや賭け事の面白さも、人間の合理的な思考や意図がサイコロの目のような偶然的要素の介入によって撹乱されることから来る。さて、偶然を人は「単なる」偶然と言いたがるが、これは合理性の立場から見た言い方であって、この「単なる」には「必然の欠如」という意味が含まれている。偶然とはしかし、本当に必然の欠如にすぎないのだろうか? 前回述べたように、偶然はわたしたち自身の存在の根底にある。もし偶然を欠如と考えたら、私たち自身の存在も最終的には無根拠な出来事にすぎない、というニヒリズムに行き着く。
偶然を何らかの欠如としてではなく、むしろ世界を変える一つの「力」としてとらえたいという思いが「じゃんけん:運の力」というテーマには込められている。だがそれだけではない。じゃんけんはコイン投げやサイコロと違って、三つの手の勝敗が互いに組み合わさって閉じた輪を形成しており、勝ち負けはいわばその輪を循環するような仕組みになっている。「3」という数字はこのような循環を作り出す最小の数である。さて、この複雑な世界を理解しようとするとき、競争を通じて勝ち組・負け組が二分されるとみるか、それとも強いものが回り回っていちばん弱いものに負けるような循環的構造とみるかによって、かなり様相が違ってくる。現代の社会をみると、たしかに勝ち組・負け組の二分法的見方が優勢のように思われる。だがそれは、そもそも社会が人為の産物だからである。もっと視野を広げて、自然界を眺めてみるとどうだろうか?
人間は自分を世界の中心だと考えている。自然を大切に!と叫ぶ人々ですら、その「自然」とは人間にとって都合のいい自然環境のことにすぎない。そして人間は、自然を「保護」できるほど強いと思い上がっている。だがある意味では、地球に君臨しているようにみえるこの人間ほど弱い存在はない。人間の健康も命も、たとえば体内や環境における微生物の環境がちょっと変わるだけでたちまち影響を受ける。道徳や宗教の話ではなく科学的事実として、人間は自分の力で生きているのではなく、自分以外の様々な他の生き物、存在者のつながりの中で「生かされている」のである。
生き物のそうしたつながりを知るもっとも身近な手がかりこそウンコなのである、と言ったら笑われるだろうか。動物は自分や他の個体のウンコにとても関心をもつ。ニューギニアのダニ族をはじめとする「未開」人たちにとって、神の贈り物である食物が体内を通ってまた世界へと帰って行くウンコは、重要であるばかりではなく神聖なものである。文明社会の子供も最初はウンコに関心をもつが、しつけや教育によって排便に関する事柄を忌避するように条件づけられる。だがそうした「文明化」は偏ってはいないか? 文明化を否定したり過去にもどったりするのではなく、未来の人類文明をもっと豊かなものにするためには、ウンコに注目すること、つまりもうひとつの「ウンの力」が必要なのだ。わたしは冗談ではなく大まじめで言っているのである。そしてこのことを私よりももっと大まじめに、医学的・生物学的な根拠をもって主張されてきた方こそ、藤田先生なのである。
【連載その3 ライフ・リサイクル】
何事につけ「循環」や「リサイクル」の重要性が話題にされる昨今だが、では究極のリサイクルとは何か?と問うならば、それは「輪廻」にほかならないのではないか。この人生が、〈私〉という個人の誕生と死によって区切られる数十年間、長くても百年程度の時間の中で終結するものではなく、果てしなく循環する宇宙的なプロセスの一部にすぎない‥こうした世界観は近代以降、表向きには因習的・迷信的な考えとして排除されてきた。だが少なくとも東アジア(といってもどこまでを言うのか難しいが)においては、私たちの無意識的な生の実感の中に、「輪廻」はしっかりと根付いているように思える。
つげ義春の漫画に『ゲンセンカン主人』という作品がある。たしか主人公が自分のドッペルゲンガーを探して「ゲンセンカン」という名の汚い温泉宿を訪れる話である。そこで出会った老婆が「前世からの因縁」を語る。おばあさんはそう信じているのですね?と主人公が問うと、だって前世がなかったら私たちは生きていけないではないか、と老婆は答える。なぜ生きていけないのです?と主人公がしつこく追及すると、その老婆は、だって前世がなかったら私たちはまるで‥ゆ、幽霊ではありませんか、と言うのである。「前世が存在しないならば、この生そのものに実体がない」————一見不合理なこの主張が、なぜこんなに説得力をもって響くのだろうか。
それに対して「一度しかない人生だから」といった言い方は、近・現代人の決まり文句である。そしてこの決まり文句には、ほとんど何の説得力もない。というのも、この「だから」は何らかの根拠を示しているようでいて、実は何の根拠も示していないからである。一度だけなのだからこの人生を大切に生きなければいけないとも言えるし、反面まったく同じように、どうせ一度で終わってしまうのだからこんな人生どうでもいい、とも言える。「一度しかない」という人生観が指し示しているのは、むしろこの無根拠性そのものと考えることもできる。つまり「一度しかない人生」という考え方は、とどのつまりは、人生全体を意味づけるような根拠はない、ということしか言っていないのだ。
一方「輪廻」は、この人生に何らかの意味を与えてくれるようにみえる。けれども、だからといって輪廻をふつうの意味での「事実」として認めようとすると、そのとたんに問題がすりかわってしまう。子供の頃、家に来ていた浄土宗のお坊さんに「もしぼくが死んでアリに生まれ変わっても、それはただのアリでぼくの記憶も意識も持っていないのだから、〈輪廻〉という概念自体が成り立たない」などと、幼稚な反論をしたことがある(恥ずかしい)。あるいはまた、「前世の記憶」の存在を合理的に証明したと主張する人たちもいる。これもまた、その主張の当否はともかく、輪廻をふつうの意味での「事実」と考えているわけである。
「事実」とは何か?哲学的に議論するとかなりややこしいが、とりあえず「何らかのやり方で経験可能な事柄」としておこう。宇宙の始まりとされる「ビッグ・バン」は、もちろん誰も直接経験していないけれども、その証拠と考えられている「黒体輻射」は観測できる、つまり経験可能である。同様に人の「死」は、それを外から見たり聞いたりできるという点でのみ「事実」である。では自分の「死」はどうか?たしかに死の不安や死に至る苦痛は経験できる。けれども「死」そのものは原理的に経験できない。死とは経験主体の消滅にほかならないのだから、当たり前である。私自身の「死」とはいかなる事実でもなく、むしろ事実的世界全体の境界なのである。
〈輪廻〉とはそうした境界の向こう側の話だ。だから事実としてあるとかないとか議論しても無駄だし、信じる信じないという問題でもない。〈輪廻〉とはこの事実的な生の外部にあって、この生を意味付けているひとつのリアリティのことなのである。そして意識するか否かはともかく、すべての循環的・リサイクル的な思考は、究極的にはこのリアリティを暗示しているのである。
【連載その4 「東と西」の彼方へ】
現代人は自分が理性的な理由に基づいて行動していると思っている。仕事ができ、「ボクは頭がいい」と信じている男たちは特にそうだ。けれど「理性」それ自体はいかなる行動の動機にもなりえない。動機はその背後に、つまり「理性的であることはそうでないよりも良い」という判断に発する。この判断自体は理性的ではない。つまり「なぜ理性的であることはそうでないよりも良いのか」は理性では説明できない。ではこの判断は無根拠かというとそうではない。それは「理性の拡大が人間の進歩であり、我々を幸福に導く」といった〈物語〉に支えられている。人間を真に動かすのは〈物語〉なのだ。
ここで〈物語〉といっているのは、起承転結のある「おはなし」というふつうの意味ではなくて、私たちがそれによってこの世界全体を了解する何らかの時間的枠組み(あるいは枠組みの示唆)という、やや広い意味である。この意味では、宗教も資本主義もテクノロジーも、それぞれ異なった〈物語〉となる。それらは人類の救済、自由競争を通じた自己実現、自然の制御を通した文明の進歩、といった世界了解を背負っているからである。べつにそういう大げさなものだけでなく、たとえば「ふつうの人間として平凡な幸せを得たい」なんていう欲望も、実は意外に抽象的なひとつの〈物語〉に支えられている。
「西と東」というのもまた、私たちにしつこく付き纏っている〈物語〉のひとつだ。ローマ法王の演説がイスラム教を攻撃したと騒がれているが、この法王も「西と東」という〈物語〉の虜になっているようだ。それも「西」に理性を、「東」に暴力を帰属させるという、めちゃくちゃ古いヴァージョンの〈物語〉である。「十四世紀のビザンチン皇帝の言葉を引用しただけで私の意見じゃない」なんて、まるで失言した日本の政治家みたいな言い訳をしているが、根本的な問題は「理性とコンパティブルな西の神」というようなお話が今の時代にはたして有効かどうかということだ。「理性的」な近代人がとっくに克服したと思っていた中世的「東西」対立を復活させているのが、イラク戦争後の世界情勢である。このことをむしろ警戒して、「西と東」を越える包括的【ルビ:カトリック】な〈物語〉としてのキリスト教を改めて代弁することこそ、法王たるものの使命ではなかったか?[注:先日生前退位したベネディクト16世が、イスラム教が暴力に基づいた宗教であるかのような発言をしたことが当時話題になっていた。]
恐れ多いことを言ってしまったが、人ごとじゃないのである。私たち日本人だって近代化以来、「西と東」という〈物語〉にずっととらわれたままなのだ。岡倉天心も福沢諭吉も西田幾多郎も、明治の思想家たちはおしなべて、私たちよりもずっと直裁な言葉でそれを思考していた。「西」に対立しやがては「西」を克服すべき「東」という理想は、世界史のうねりの中で「アジアを解放する」ための植民地主義戦争と結合し、それが破綻すると、端的に忘れられてしまった。それは消滅したのではなく「抑圧」された、つまり戦後のアメリカ化の中で「西」と曖昧な形で自己同一化することで、うやむやにされてしまったのである。だから「西と東」という〈物語〉の問題は今も未解決のまま残っており、そのことが日本とアジア近隣諸国との関係に上に影を落としている。
岐阜おおがきビエンナーレ2006の焦点のひとつは、アジアへの注目である。そもそもアジア人である日本人が「アジア」をエキゾチックなものとして表象すること自体、「西」をみずからに内面化した証拠である。このように、日本にとってアジアを見ることとは、自分自身を見ることにほかならないのである。自分自身の姿を反省的に知ることがなければ、文化交流なんて何の意味もない。とはいえ、「西と東」という〈物語〉はとても強力であり、そこから単純に逃れることなんてできないだろう。私たちにできるのは、この〈物語〉をヴァージョンアップすること、「西と東」という世界の分節に、大時代的な「文明の対立」ではなく、もっと創造的なイメージを与えることなのである。
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