7月2日(火)の夕方は、横浜都市文化ラボという所で話をすることになっている。今回の講義はいつもとちょっと違い、平成26年1月に開催が予定されている「台東区パノラマ・プロジェクト」のためのものである。これは廃校になった小学校の校舎を使って演劇、音楽、美術展、上映会、トークショーなどを約一週間にわたって実施するイベントであり、ぼくはマルチメディア・インスタレーション作品「BEACON」の作家として招待されている。
といっても、この作品は5人の作家グループで制作してきた作品であり、ぼくはその中で全体のコンセプトやテキストを担当してきたにすぎないのだが、それでもこれはぼくの美術作家としての活動としては、最も重要なものである。これまで中京大学(1999)を皮切りに、インターコミュニケーションセンター(2003)、大阪成蹊大学(2004)、京都芸術センター(2010)と、4回にわたって展示してきた。首尾よく来年東京で5回目の展示が実現することを、本当に楽しみにしている。
というわけで、明後日の横浜の講義ではこれまでの作品BEACONを紹介し、その背景となっている思考について話すということになると思う。それで何よりもまず、1999年に中京大学のギャラリー「Cスクエア」で展示した最初の作品のために書いたテキストを読んでいただきたい。このテキストは実際には、大きな紙に真っ黒な背景で印刷され、それ自体が作品の一部として制作されたポスターに使用されたものである。
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BEACON
制作:伊藤高志 稲垣隆士 [Kosugi+Ando](小杉美穂子 安藤泰彦) 吉岡洋
協力:エプソン販売株式会社
会期:1999年4月5日(月)〜 5月8日(土) 入場無料
休館:日曜・4月29日−5月5日 開館時間:午前9時−午後5時
場所:中京大学アートギャラリー C・スクエア
地下鉄鶴舞線「八事」下車、1番出口から本山方面へ徒歩3分 TEL: 052-835-5669
わたしたちの記憶には、コンピュータのメモリ空間のような、明確で一義的なアドレスはない。それは記憶が、意のままにならないことを意味する。憶えたいものをすべて憶えておくことも、忘れたいものをすぐに消去することもできない。わたしたちの記憶は機械のそれに比べて、とても不自由なものなのである。
記憶は、そこに向けられる一瞬の光に浮かびあがる、断片として現れる。そして、どんな断片が、別のどんな断片とリンクしているのかも、明らかではない。機械のメモリが、隅々まで明るく照明された部屋だとするなら、わたしたちの記憶の世界はまるで、夜の闇だ。生きるとは、この〈記憶という闇〉のなかを、手探りで進むことなのである。
すべてのメモリ空間がアクセス可能な世界は、いわば明るい〈死〉の世界だ。その意味で、サイバースペースの魅力とは、実は〈死〉の魅力だといえる。それに対して、生きることとはまさに、世界のほとんどが見えないこと、闇のなかにいることにほかならない。
その中に、突然ひとつの光景が出現する。遠い光源によって、明るみへともたらされる。BEACON——それは山の上に、また岬の端に、かすかに見える光のことである。だがそれが記憶をよびさますことができるのは、他のすぺてを、闇が覆い隠しているからだ。
広大な記憶の闇のなかの小さな場所が、ほんの一瞬、照らし出される。だがそれはすぐにまた、闇のなかへと沈みこんでしまう。光は、反復的にやってくる。この反復そのものは、機械的である。けれども次の光が来るまでの間に、記憶の断片は、少しずつ姿を変え、かすかに動きはじめる。
そうした反復的な想起のなかで、わたしたちは自分自身の姿とも出会っている。わたしたちが出会う〈自分〉とは、つねに一瞬前の自分である。記憶のなかで出会う自分自身の後ろ姿を見ながら、わたしたち自身は、ほんの少しずつズレてゆく。離散的な時間のなかで、小さなジャンプを繰り返している。
記憶は、たんに回復されるのではない。それは断片と飛躍のなかから、はからずも生みだされる。過去の破片を復元しようとして、まったく新しい何かを作り出してしまうのである。記憶というこの〈生成物〉こそが、わたしたちを未来へと運んでゆく。
BEACON——それは、遠い場所にある標識である。わたしたちはそれによって自分の航路を決めるけれども、けっして光源にたどり着くことはない。すべてを明らかに照らし出す光そのものに到達できないこと。記憶の、この独特の不自由さと暗さ。だが、まさにこの不自由さと暗さによって、記憶は動き、わたしたちは生きているのではないか・・・。
今回の展覧会は、各分野で現在独自の活動を繰り広げている、映像作家の伊藤高志、稲垣貴士、現代美術作家の「Kosugi+Ando」、そしてわたし、吉岡洋の共同作業(コラボレーション)によって形作られる。
インスタレーション、映像、音響、テクストの共振をつうじた、〈記憶〉をめぐる旅が、今始まろうとしている。
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これは、グループの5人がこの作品の最初の実現に至るまで、一年近くにわたって交わしてきた議論を思い出しながら書いたものである。「記憶」がテーマなのだが、ぼくは最終的にはそれを機械(コンピュータ)のメモリと人間の記憶の違いという点から整理して、完全なメモリ空間を「明るい死」、意のままにならない記憶を「暗い生」に重ね合わせてみた。そして、私たち自身は「明るい死」に魅了されながらも同時に暗闇を求め、暗闇の中にいっとき浮かび上がる光景を眺めながら、それをもたらす光源にはけっしてたどり着けない存在として考えてみた。
作品の一部としてのこうしたテキストは、たしかにふだんの文章とは違う姿勢で書いている。といっても、それは詩的な創作というようなものではない。どういったらいいのか、それは論理的な整合性というレベルでのコントロールを弱めて、けれども別なレベルでの整合性を強めるというような作業である。この別なレベルの整合性というのがうまく説明できないのだが、結果としては何度も読めるとか耳に残るとかいうことに関係がある。2010年の京都芸術センター版では、ぼくはまた新たなテキストを書いて、しかもサウンド担当の稲垣貴士さんに頼まれて自分の声で読むということをしたが、BEACONにおけるテキストの位置付けはたぶん最初からそういうところに向かっていたのかもしれない。
ぼくは自分の声が好きなわけでもないし、読み方が上手いとも思わない。またこのような文章が、ふつうの意味での文学的創作として優れているともまったく思っていない。けれども、自分の読む声を自分で聴くようにテキストを書くということが、この作品「BEACON」における自分の役割だということはだんだん分かってきた。そして書くという行為をそのように理解することの重要性も、この作品との10年以上の関わりを通じて、自分にとってとても大きくなってきたと思う。来年「BEACON 2014」がもしできるならば、自分がそうしたテキストを書くことの意味についても、もう一歩踏み出して考えてみたいと思っている。