メディアの視聴者はおしなべて「熱い」ものが好きである。マクルーハンはメディアに「ホット」と「クール」を区別したらしいが、こんなのたんなる思いつきで、一度も説得力を感じたことがない。メディアに熱いも冷たいもないだろう。でも、メディアに接続された人間はおしなべて、「ホット」を欲望する。このことだけは確かなように思える。熱さがこうじて時々「炎上」したりもするらしい。それはたぶん、テレビやパソコンの前に座っている現実の身体が、心底冷え切っているからではないだろうか。ぼくはそう思う。
かくも「お熱いのがお好き」なメディアの視聴者は、政治討論やスポーツ実況中継が好きなのはもちろんだが、それだけでは飽き足らず、本来熱くないものまで、熱くしようする。業の深いことである。そのひとつが大学の講義である。「世界一受けたい授業」などという番組があるらしいが、こんな言葉を口にする人にかぎって、授業などには何の興味も持っていない。読書に何の関心も抱いていない人にかぎって、「わたしを変えた一冊」などという読書案内を真に受けるのと同じである。愛がない人ほど「愛」という言葉に頼りたがるのである。
ぼくの授業には、そういう熱さはない。だから「白熱」することなどありえない。大学の授業とはむしろ、メディアに抱囲され、情報の「熱さ」という強迫観念に覆われたこの現実からの、避難所だとぼくは考えているからである。2時間もかけて遠方から聴講に来てくれる学生もいて、それを言うと「熱いですね」という人もいるが、そうではない。彼女ら彼らはむしろ熱さを避けるため、クールダウンするための場を共有するために来るのである。教室とは本来シラけたものであり、そのシラけた状況の中で、頭がクラクラするような経験をすることが重要なのである。
けれども、教室を白熱させることに興味をもっているのがメディアだけではなくて、文部科学省や学術振興会のような組織もそうだということを知ると、この国の将来はどうなるのだろうと心配になる。産官学にわたって活躍する「国際的リーダー」なるものを要請するという「博士課程リーディング大学院プログラム」などという構想は、本当に白熱していて、素手で触ると火傷をしてしまう。現実には失敗するに決まっているこんな大ウソに多くの人が騙されてしまうのは、みんなメディアの前にじっと座ったままで冷え性になっていて、頭の中だけで非現実的な「熱さ」を希求しているからだ。
また、テレビなどのメディアが大学の教室に出張して「熱い」議論や討論を演出し、そういう番組を多くの人が喜んで見たりするのも、実に抽象的な「熱さ」を求める空疎な欲望であり、痛々しい見世物としか言いようがない。不幸にしてそんな場面に引っ張り出された学生さんたちは、つい真面目に発言したり討論に参加したりしようとしてしまうのだが、そのようにセッティングされた場面でどんな発言をしようと、そのセッティングを受け入れた時点ですでに敗北しているのであり、結局は用意された「熱さ」のシナリオに回収されてしまう。だからそういう時は、マトモな意見を言ったり賢い発言をしようとしたりしないで、突然叫んだり不規則な行動をとったりすればいいのではないかと思う。もちろん番組では編集されてカットになるだろうけど、少なくともその現場の雰囲気を一瞬ジャックすることはできるから。