これは、前回の記事のいわば続きというか補足である。最後の段落でぼくは、アートとは政治によってやっと存在することを許されるような従属的存在ではない、という意味のことを書いた。それはどういう意味か。たんなる理想論を言っているのか。現に、新しい美術大学の開学が、一大臣の発言によって危機にさらされたではないか。そもそも芸術分野に配分される予算を決めるのは政治の判断であって、芸術自身には決められないではないか。そうした問いに対してお答えしたい。
本質的な意味で考えるならば、アートにとって政治とは、アートを外から支配する何らかの力ではない。むしろ、アートとは政治そのものなのである。けれどもこのことを理解するには、政治とは何か、「政治的である」とはそもそもどのようなことなのかを、考えてみなければならない。というのも、私たちが常識的に理解している「政治」は、政治的なものの本質を何も語っていないと思うからである。
常識的な言い方において「政治的である」とは、何らかの立場をとることを意味する。かつてはそうした立場は、宗教的信念や哲学的洞察を基盤としていた。つまり「世界をどうすべきか?」は「世界がどのようにあるか?」から導き出されていた。けれども、イデオロギーが終焉した新自由主義的世界においては、政治的立場とそうした形而上学的・哲学的世界観とのつながりは断たれてしまった。それでは今日、政治的な立場とは何かというと、それは結局のところ利害得失の計算へと還元されるのである。
たとえば、新しい大学を作ることを推進する政治的立場がある。それは、国からの助成金の獲得やそれが生み出す利権と結びついている。それに異を唱えた大臣は、そうした利権を求めて大学設置の規制緩和を進めて来たグループから金と権力を剥奪しようとしている。教育、文化、社会、外交等あらゆる局面の選択において、「この国はこうあるべきだ」という方針について、言葉の上では思想や信条が表明されるとしても、それを本当に決定しているのは、いかにして自分の勢力を拡大し敵対勢力を制圧するかという、パワーゲームにおける利害得失の計算なのである。
だとすればやはり、教育や学問のことをまじめに考えたり、アートに本気で関わったりしている「ナイーヴな」人々、つまり文化というものを真剣に受けとっている私たちは、パワーゲームとしての政治のその時々の動向にただ振り回されるだけの、従属的で弱い存在ということになりはしないだろうか? そう思えるのも無理はないが、わたしはあえて、そうではないと断言したい。文化やアートをそのような活動として理解するのは、絶対的に間違っていると思えるからである。
アートをはじめ文化的活動に本気で関わるということは、ナイーヴなことではく、いわばパワーゲームの支配するこの現世を、生きながら断念するということなのである(以前の記事「自愛について」で言及した、「あらかじめ死んでおく」ということだ)。そしてなぜそのような選択をするかと言えば、それは真の意味で政治的になるためなのである。本質的な意味で政治的(ポリティカル)であるとは、敵を倒して自己勢力を拡大するゲームをプレイすることではなく、むしろ自己利益を括弧に入れて、国家(ポリス)のあり方を考えることである。つまり「世界をどうすべきか?」という問いを「世界はどのようにあるか?」という問いへと再び結びつけることなのだ。
日本語において「政治」ほどアビューズされてきた言葉はないかもしれない。「政治的」という日本語には、"political"という意味だけがあって"politic"という意味がない。"Politic"とは、状況を深く判断して振るまう巧みさを言い表す言葉である。それは私たちが「アート」と呼んでいるものと、ほとんど同じなのだ。その意味でアートは政治と同一なのであり、アートを真剣に受けとることは、より真の意味で政治的であることにほかならないのだ。