11月2日(金)から24日(土)まで、京都南九条のボイスギャラリー(MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w)で、松井智恵「現代美術と批評のスクール」展が開催されている。「批評のスクール」と銘打つだけあって、2週間の会期中になんと4つのトークイベントが計画されている。
わたしはそのいちばん最後の回(11月17日午後7時〜9時)に招かれ、作家の松井智恵さん、ギャラリストの松尾恵さんとお話をすることになっている。同日の直前(午後5時〜7時)には京都大学人間環境学研究科の篠原資明さんをゲストに迎えた「1980年代アート再論」というトークがある。それで、その後の最後の回のテーマを何か、と松尾さんに言われ「少女たちの行方」というタイトルを思いついた。
なぜいま(いまなお?)「少女」なのか?
1986年8月の『美術手帳』の特集テーマは「美術の超少女たち」であった。そこに松井智恵さんも松尾恵さんも、他の多くの作家たちとともに「超少女」として紹介されている。篠原資明さんも作家評を寄せている。
この特集は、たんに当時若い女性美術家たちの活躍がめざましいという報告ではない。むしろ、彼女らが美術における従来の慣習から自由で、オジサンたち(前衛を戦ってきた成人男性)を尻目に、現代美術をもっと軽くカラフルでオシャレなものに変貌させつつあることを、祝福する特集のようにみえる。
つまり「少女」はそこでは、オジサンたちが作り上げてきたシステムにとって脅威となるような生意気な小娘たちではなく、むしろ停滞した美術界にみずみずしい変化をもたらす存在として受け入れられたのである。80年代の美術界は少女たちを必要としていたのだ。
美術界だけではない。1980年代、日本社会は「少女」という存在を必要とし、そのシステムの中枢に受け入れたのである。それはなぜだろうか? 直後の90年代に入ると「ブルセラ産業」や「援助交際」がマスコミを騒がし、社会は少女たちに過剰な性的価値を付与しはじめたことも、そうした中枢的な変化の(フロイト的な「夢の加工」のように歪曲された)現れである。
1989年、わたしは日本記号学会から(まだ就職もしていなかったのに)企画を任されて「少女民俗学とトランスジェンダー」というシンポジウムを同志社大学で開催した。同年の新刊書でわたしが気になっていた2冊の本——大塚英志『少女民俗学』(光文社カッパブックス)と渡辺恒夫『トランスジェンダーの文化』(勁草書房)——の著者を招いて、少女、ジェンダー、セクシュアリティ、両性具有といったキーワードから、20世紀末日本の社会と文化について考えようとするものであった。
社会がこの時代になぜ少女的な存在を必要とし受け入れたのかという問いに対しては、大塚英志さんの『少女民俗学』が答えてくれる。近代化の進展とともに人々の自己アイデンティティは、民俗的共同体における役割から離脱し、さらには生産者としてよりも消費者として側面が拡大してゆき、そしてついには誰もが、生産可能な大人の身体を持ちながら消費するだけの存在、つまり「少女」となったからである。「少女」とはポストモダン的消費主体の純粋な自己像であり、そうしたものとして欲望されてきたのだ。
だが大塚さん自身が同書の後書きの最後に述べているように、そのことを確認したところで私たちは「大人」になれるわけではない。そして、みんなが「少女」に留まるような世界は、未来のない絶望的な世界である。少女は私たちをどこに連れて行くのか…。
そこで、渡辺恒夫さんの「アンドロジナス文明」という、ある意味途方もない構想に、希望を見出そうととしたのである。「アンドロジナス」というのは「両性具有」ということである。ジェンダーやセクシュアリティが現在のように固定した窮屈なものになったのは近代文明であり、それは人類史の中ではむしろ特殊な例であって、本来人間の性差・性別はもっと柔軟なものだという考え方だ。これにはとても共感した。
たとえば北米先住民の社会には、男性でありながら女性の姿をして生涯を過ごし、しかも部族内できわめて重要視されている「ベルダーシュ」と呼ばれた人々が広範囲に存在する(渡辺さんの本は80年代に出たのでこの名称で呼んでいるが、現在英語では"Two Spirits"と呼ぶのが普通である)。古代ギリシアの少年愛(パイデラスティア)や、近代以前の日本における「衆道」なども含め、こうした前近代的な伝統の背後には、ジェンダーをより複雑で精妙な仕方で理解し社会制度の中に反映していた、両性具有的な文明の姿がみられるというのである。
それが近代に入って、男性性と女性性の固定した観念と役割の中に人は閉じ込められるようになった。そこでは、あらゆるジェンダー越境的・両性具有的な現象が「異常」あるいは「マイノリティ」——変性症、異性装、同性愛、etc.——として「医学的に囲い込まれ」ることになる。だがそれらが本当は、人類文明のより大きな特徴である両性具有性が、近代という特殊な条件の中でそのシステムの隙間から現れているのだとしたら?
そして1980年代以降、日本文化の中でオブセッションと化している「少女」的なるものもまた、究極的には、私たちの文明がその近代的なジェンダー機制を脱して、新たな段階に移行しつつある徴候であるとしたら? こうした問いを抱えて、松井智恵さん、松尾恵さんとのトークに臨もうと思っています。