文部科学大臣の田中真紀子が、専門家による審議を経て来年4月の開学を予定されていた大学の認可を、突然取り消した。大学が増えすぎて質が低下した、そもそも設置認可のやり方を見直すべきだ、というような理由である。そもそも大学が増えたのは国が設置基準を緩和したからであるが、それをあえてまた見直すというのなら、来年度の申請からにすればよい。誰が考えても当たり前のことである。
わたしもこれまでの教員人生の中で、甲南大学文学の人間科学科(1995年)、情報科学芸術大学院大学(2001年)という、2回の大学設置申請を経験したが、それがどれほど多くの人々の、信じがたいほどの時間と労力を要する大変な仕事であるか、身にしみて経験している。やっと審議会により認可を経て開学準備を進めているこの11月の段階で、大臣の権限によりその認可を取り消すことは、ほとんど自殺者が出てもおかしくないくらいの暴挙であり、政治権力の濫用以外の何ものでもない。
それでは、なぜ政治家はそんなことをするのかと言えば、そこには実はたいして深い計算はない。主として自分自身の決断力や政治的行動力を見せるためなのである。この田中真紀子という人は、都知事を辞めて新党を作った石原慎太郎のことを「暴走老人」と呼んだが、それは自分自身のことでもあったのであろう。「暴走」はいくら非難されても最終的には政治家としての自分の評価にとって有利に働くということを、直観的に知っているのである。大阪市長の橋下徹も、この種の直観には恵まれた政治家である。
こうした政治家の「暴走」を、他の多くの(暴走しない)政治家も、マスメディアも、ネットも、その他一般の人々も、こぞって反論し、非難し、揶揄し、溜め息をつき、冗談を言い合い、飲み会のネタにし、シニカルに無視したりする。けれども、ちょうど本物の暴走族がそうであるように、圧倒的マジョリティの人々がそれを嫌っているようにみえるにもかかわらず、暴走する政治家たちは後を絶たないのである。なぜなのか?民主主義なのにおかしくはないか?と、政治音痴でナイーヴなわたしは疑問を持たずにいられない。
わたしにとって、この素朴な疑問を解く答えは、ひとつしか思い浮かばない。それは、実は圧倒的マジョリティ(つまり私たち)が、本当は、心の底では、暴走する政治家たちが演じる茶番劇を、深く欲望しているからではないのか、ということである。
わたしが生まれた1956年に作られたアメリカのSF映画に『禁断の惑星』というのがある。宇宙移民の候補地であった惑星「第4アルテア」に到着した移民団が、正体不明の凶暴な怪物に襲われる。後に到着した調査隊もまた、物理的にはありえないような、この攻撃不能の怪物の襲撃を受けて脅威にさらされる。実はその惑星には、かつて高度に発達した文明があり、先住民(「クレール人」)たちはある時原因不明の滅亡をとげたのだが、彼らが建造したエネルギー施設は今も地下で稼働している。
最後に謎が明かされる。実はその星の先住民たちが滅亡した原因は、きわめて高い知能を持ち高度な文明を築き上げたにもかかわらず、誰しもが心の底に持つ強い破壊衝動(フロイトを参照して「イド」と呼ばれている)を解決できなかったことにある。そのことを知らずその惑星に到着した地球人類たちは、やはり自分たちの心の底にある同様の破壊衝動を解決していなかったために、その無意識の衝動が地下施設により現実のエネルギーを備給されて、怪物となって現実化し、みずからを襲う結果となったのだ。
これだけの議論で賛同をえることは難しいかもしれないが、わたしが言いたいのは、暴走する政治家たちと彼らが演じる茶番劇を深層で欲望しているのは、実は暴走しないマジョリティである私たち自身なのかもしれない、ということである。どんなに非難してもシニカルにあざ笑っても「政治という笑劇」がなくならないのは、私たち自身がそれぞれの心の深いところに、まだ開拓されていない荒れ地を放置したままにしているためかもしれない、と強く感じるのである。
そして、これもあまりにも原理的なことで今さら言うのも憚られるのだが、そうした心の荒れ地を耕し(cultivate)、怪物にエネルギーを供給しないようにするという営みこそ、文化(culture)であり、芸術なのである。今回、設置認可取り消しで大混乱に陥っている大学中わたしの専門分野にもっとも近いものとして、秋田県ではじめての4年制美術大学として期待されている秋田公立美術大学がある。美術系大学にはただでさえ風当たりが強い昨今だが、わたしは文化や芸術が、原理的な意味においては、政治によって守られ政治によってやっと存在を許されるような弱い存在であるとは、けっして思っていない。文化・芸術活動の中心は、政治や経済を含め、この世界をもっとも根底から変革しうる可能性にある。このことを思念できない国家は、「禁断の惑星」のクレール人たちと同じように、早晩かならず滅亡するであろう。