「クールジャパンと炭坑節」というのは、7月21日に水戸芸術館のトークイベントでした話のタイトルである。
どうしてこんな組み合わせを思いついたのか、自分でもよく分からない。この催しはそもそも、美術家の高嶺格さんが12月に同館で行う展示「高嶺格のクールジャパン」に先だって、彼が社会学者の小熊英二さんとぼくを招いて、「クールジャパン」をめぐって自分の思うところを公開でいろいろ質問するという趣向だった。
3月の「世界メディア芸術コンベンション」の後に、このブログで「クールジャパンはなぜ恥ずかしいのか」という記事を書いた。それが予想外にたくさんの人に読まれたこともあって、水戸の学芸員の高橋瑞木さんはぼくを招待したと思うのだが、ぼくとしては「クールジャパン」について考えいてることはだいたいあの文章で言ってしまったので、もうそれ以上言うことはないと最初はお断りしたのである。
しかしそれに対する高橋さんの説得に負けてしまった。彼女は、チラシにも掲載された高嶺格の自己紹介文から「…様々な社会問題を、どう芸術作品に反映させるかに苦心する日々を送る。反面、そうした正義感と相反する、自分の非道徳的ナンセンスへの興味を捨て去ることができず、…」という箇所をひいて、いわばこの前半の部分が小熊さんのパートで、後半の「非道徳的ナンセンス」が吉岡さんのパートですので、是非お願いしたい、と言ったのである。
これは少し買いかぶりであると知りつつ、引き受けた。正直「非道徳的ナンセンス」などというものは、ぼく程度の知性にはかなり荷が重いのである。しかしこんなにストレートにおだてられて、ついその気になってしまったのだ。「クールジャパンと炭坑節」は、そういうリクエストからひねり出した苦肉のテーマである。
なぜ「クールジャパンと炭坑節」なのか? そのココロは簡単に言うと次のようなことだ。「クールジャパン」の根底には、「日本人論」「日本文化論」と呼ばれる一連の言説に特徴的な心性がある。その特徴は、日本人や日本文化は世界のなかでも非常に特殊なものだという根拠のない信念である。
もちろんどんな文化に育った人も、多かれ少なかれ自文化を特別と感じるのは当たり前である。しかし日本の場合、そこで信じられている特別さ加減がハンパでなく、ほとんどナンセンスの領域にまで達している。たとえば「日本人の腸は欧米人のそれよりも長い」という奇説がある。1980年代にアメリカ産牛肉の輸入自由化を迫られた時、日本人の腸は豆や穀物を消化するのに適しており外国産の肉は消化できない、という口実に使われた。
もう少しシリアスな最近の話題としては、福島第一原子力発電所事故調査委員会の最終報告書に付された英文の前書きにおいて、議長の黒川清氏が述べている「【事故の】根本的な原因は、日本文化に深く根づいた慣習」だという結論にもみられる。原発事故とその処理をめぐる様々な問題は、日本人なら誰が責任者となっても同じような結果になっただろうというのだ。
これらから分かるように、「日本(人・文化)は特別である」という信念は、「クールジャパン」にみられるように「特別に優れている」という意味でなくてもよい。「特別にダメだ」と言っても実は同じであり、つまり「特別」でありさえすればいいのだ。だから「日本社会には本当の民主主義は根付かない」とか「日本人はいつまでたっても英語ができない」とか主張するネガティヴな「日本人論」「日本文化論」は、「いつまでたっても」人気が衰えないのである。
だからといって、こんなに自国民・自国文化のことを特殊だと信じているのは日本だけだ、などとクソ真面目に批判したりすると、それがまた新たな「日本人論」「日本文化論」を形成してしまう。だからあまり相手にしない方がいいのだが、問題はそうした「日本(人・文化)の特殊性」が、重要な政治的問題から眼を逸らすために使われているということである。「日本はほんとにしょうがないよ」と言い合うことで、それが「文化」という口実あるいは「隠れ蓑」となってしまう。
これは政治的なトリックとしては巧妙というよりむしろ"absurd"な(馬鹿げた)ものだが、それはアブザードであるがゆえに、そのイデオロギーを真正面から批判してもなかなか崩れない。「クールジャパン」もまたこうした"an ideology of the absurd"とでも言うべきものに支えられているので、それを解毒するにはまったく別な種類の"absurdity"をもってするしかないように思われた。だから「クールジャパンと炭坑節」という話を思いついたのではないだろうか。
「炭坑節」は子供のときの盆踊りのスタンダード・ナンバーであった。炭坑町でもない日本中の多くの場所で、そしてエネルギー源はすでに石炭から石油・原子力へと移行した後も、「炭坑節」は長らく歌われ続けた。「炭坑節」の起源は、「ゴットン節」と呼ばれる労働歌があり、またそれは「チョンコ節」と呼ばれる俗謡・春歌とも関係がある。それらの内容は絶望、諧謔、風刺、恋愛など様々であり、また夥しい数の卑猥な歌詞が存在する。そしてまた、1985年の日航機墜落事故で亡くなった歌手・坂本九の「九ちゃんの炭坑節」というのも思い出した。これは「炭坑節」をサンバ風にアレンジしたものである。
このように広大な裾野をもつ「炭坑節」という文化を「クールジャパン」にぶつけてみたいというのがぼくの話の意図だった。「炭坑節」についてもう少し詳しく述べる必要があるが、すでに記事が長くなりすぎたので、それは次回にまわしたい。