【以下の文章は、ちょうど今から10年前に書いて自分のウェブに掲載した短いエッセイですが、その後美術家の高嶺格さんが作品中に部分的に使用し、この前の記事を書いた光島貴之さんが全文読みたいと言うので掲載します。】
あなたの見ている赤とわたしの見ている赤とは、本当に同じ赤なのか?
哲学入門書などによく紹介されるアポリア(難問)だ。そしてそれは、証明も反証もできない問題であるとされている。もう少し深刻なのになると、「私以外の人間は本当に私と同じような心をもった存在なのか、実は精巧なロボットにすぎないのではないか?」というのがある。世界のなかに確実に存在するのは、この〈私〉の心だけだという立場、いわゆる「独我論(solipsism)」である。議論はここでは省略するが(Thomas Nagel, What Does It All Mean? に、わかりやすく解説されている)、これも合理的に反駁することはできない。
独我論−−ウィトゲンシュタインをはじめとする少数の哲学者たち、そして精神を病む少なからぬ人々にとって、これは生きることの根本的意味にかかわる、きわめて切実な問題である。それに対して大多数の人々にとっては、この種の懐疑は非現実的なものに思えるだろう。反論できなくたって、そんな懐疑が何も生み出さないことはわかっている、と多くの人は言うにちがいない。世界の中に本当は私ひとりであろうがなかろうが、現実の世界は変わりはしない。だからそんな不毛な哲学的言葉遊びは、端的に無視してよい、と。
このように独我論は克服されるのではなく、無視され、未解決なまま放置される。だがそのことによって、〈独我論〉は生き延びてしまう。たしかに常識的な思考、つまり共通の世界や他者の自然な存在を自明のこととする「健全な」思考は、世界の中には自分一人かもしれないなどという「病的な」思考とは、一見正反対に思える。だが、共通の世界や他者が素朴に実在しているという前提こそ、実は〈独我論〉に深く侵されているのだ。〈素朴実在論〉と〈独我論〉とは、コインの両面である。あるいは、〈独我論〉とは〈常識〉にとっての「無意識」なのである。言いかえれば、素朴な日常的意識には、〈共通の世界は本当は存在しないかもしれない〉という不安が、つねに影のように付きまとっているのだ。
この不安を本当に克服するためにはどうすればいいのか? それには、何らかのやり方で〈独我論〉の問いに直面するしかない。だがここで言う〈独我論〉とは、「他者の存在は論理的に証明できない云々」というような、抽象的な議論のことだけではない。重要なことは、わたしたちが世界を「共有」するとはどういうことかについて、真剣に考えることである。「常識」、それも本来の意味での「コモン・センス」が問われているのだ。「コモン・センス」、つまり「共通感覚」の存在とは、とうてい自明な事実などではないのである。
感覚器官や神経系の生理的な構造が種によってほぼ共通していることは、そうした「共通感覚」が存在する根拠となりうるだろうか? 否である。たとえば、イナゴが同じ匂いを知覚するときに神経細胞が発火する時間的パターンは、個体ごとにまったく異なっていることが知られている。2匹のイナゴが「同じ」匂いを知覚する根拠は、感覚器官の解剖学的構造や神経興奮のパターンの共通性にあるのではなく、種の進化をも含めた、それぞれの個体の「来歴」によるのである。(下條信輔『意識とは何だろうか』、講談社、127頁)
認知科学が明らかにするこうした事実は、何を教えるだろうか? それは、「共通感覚」を素朴な意味で前提することなど、とうていできないということだ。わたしたちはそれぞれ、まったく固有の仕方で世界を知覚している。それらは、互いに比較することも確認することもできない。にもかかわらず、特定の波長域の光を〈赤〉と呼び合うようなコミュニケーションは可能であり、共通の世界が、あたかも存在しているかのようにみえる。この、一見矛盾するような事態を可能にしているのは、生きるという経験、生命という情報処理過程の集積である。重要なのは、感覚器官の存在ではなく、身体というメモリに刻まれた「来歴」なのだ。
スロヴェニア出身のユジェン・バフチャルという写真家がいる。(港千尋『映像論−−〈光の世紀〉から〈記憶の世紀〉へ』、NHKブックス、236頁〜参照)。かれは全盲である。盲人の写真家! このことにある戦慄をおぼえるとしても、無理はないだろう。けれどもそれは、本当はそれほど異常なことだろうか? 盲目の写真家という観念に、シニシズムを感じる人、自分の撮った作品を自分で「見る」ことができないことに、悲惨さややり切れなさを感じる人もいるだろう。だがそれは、その人がまだ「見る」ことの素朴な共通性を信じており、したがって、いぜんとして〈独我論〉に深く侵されているからではないだろうか?
アスペルガー型自閉症の動物学者テンプル・グランディンは、他者の人間的感情を実感できない(オリヴァー・サックス『火星の人類学者』吉田利子訳、早川書房)。彼女は科学の論文はなんなく理解できるのに、『ロミオとジュリエット』を読むと「いったいかれらは何をしているのか、さっぱりわかりませんでした」と言う。愛や疑いや嫉妬はすべて複雑すぎ、彼女にとっては経験によって理論的に推し量るしかないものである。また、彼女は他人と身体的に触れ合うことは困難だが、抱きしめてはほしい。そこで、空気圧で自分を抱きしめてくれる機械を自作した。その機械に入って、安らかな気分になった彼女は言う。「きっとみんなはほかの人との関係でこの気持ちを味わうのでしょうね。」
ぼくたちは「同じ」世界に住んでいる。ぼくたちがユジェンと、そしてテンプルと共有している領域−−それが「共通感覚」なのである。共通感覚は、特定の感覚器官の存在や、「正常な」精神的発達によって可能になる自然な条件などではない。「五感」から出発しても、「意識」から出発しても、こうした共通感覚にたどり着くことはできない。共通感覚とは、むしろひとつの「飛躍」なのだ。それは、「ほら、そこに見えるだろう」とか「人間なら誰しもこう感じるもんさ」といった、常識的な同意の自明性を棄却したとき、つまり自然なコモン・センスを断念したとき、はじめて到達できる何かなのである。
(2002年8月24日)