「アートに何ができるか?」といった問いを、「フン!」と鼻で小馬鹿にするのは間違っている。もちろん、アートは素朴な意味で何かの役に立つだけのものではないけれど、こういう問いに対して「そんなことを聞くヤツはそもそもアートが分かってない」みたいな横柄な態度をとっていると、アートはますます痩せ細っていくだけだからである。
ではそうした問いには、どのように答えたらいいのだろうか? 先日の水戸で、ぼくは次のようなことを話した。
人は正しい事を言うだけでは不十分である。正しい事は、たんに頭がいいだけでも言えるからだ。正しい事をただ言われても、人々がそれに従うとはかぎならい。なぜならその発言は、たんに言った人の「正義」や「優秀さ」を示しているだけかもしれないからである。そういう場合は言われても「ああ、そうですか」「エラいね、頭いいね」と思われるだけだ。自分もエラい、頭いいと思われたい人はその人の真似をするかもしれないが、そうでない大部分の人にとって、たんに正しいだけの事柄というのは、結局のところ無意味なのである。
では、どうすればいいのか。正しい事は、正しい感情をもって言われなければならない。感情に「正しい」なんてあるのかと思う人もいるかもしれないが、あるのである。正しい感情とは、その人があることを言う、あるいはあることを行うために、身体的かつ人格的なレベルにおいて、十分な理由をもっている時にのみ生じる。たんに正しいだけの事柄は、ちょっと言い方を間違えると「失言」になって壊れてしまうが、正しい感情をもって言われたことは、言い方をちょっと誤ったくらいでは信用を失わない。いや、ちょっと間違ったどころか、一見非常識、非道徳的でナンセンスなことが言われたとしても、正しい感情をもって言われたことに対しては、多くの人はそれに耳をそばだて、その中に真理を見つけようと努力するものである。
たとえば「怒り」は、感情の中でももっとも激しいもののひとつである。たぶん「恐怖」の次くらいに強いものだ。怒っている時、私たちはみずからの怒りの存在を確信している。感情の知覚は直接的なので、怒っている人が「私は本当は怒っていないかもしれない」などと懐疑することはない。しかし、人はみずからの怒りを生ぜしめた原因については誤認することがありうる。敵国への憎悪は自国内の矛盾に起因するかもしれず、社会への憤懣は個人的な家族関係の歪みに依るかもしれず、母親への怒りは自分自身の心の中の葛藤に由来するかもしれない。このようにその原因を誤認された感情は、(ファシズムにおいてそうだったように)政治的な意図をもつ誰かによって誘導される危険がある。
感情の正しい原因を見出すことは、反省的な活動によってのみ可能である。アートという活動の核心は、そうした意味での「正しい感情」の探究であると、ぼくは理解している。だからアートには、表面上は突拍子もないことや、ナンセンスな、あるいは反社会的なことを言ったりしたりすることが許されているのである。それを見て、非常識で逸脱的なことをするのがアートなのかと思っている人もいるが、それはまったくの倒錯的な誤解である。アートかアートでないかは「正しい感情の探究」という中心的意図があるか否かによってはっきり区別できるのであり、それがなければ単なる奇行にすぎない。そうした仕方で、アートは道徳や倫理と結びついているのであり、言語に還元されるメッセージによって正しかったり正しくなかったりするものではないのである。
だから「原発反対」と明言するアート作品があったとしても、それだけでは、それがアートとして正しいか正しくないかは分からない。今のような社会状況ではアートもまた政治的な立場を表明すべきであるという主張も、逆にアートは本来政治的なメッセージとは無縁であるべきだという主張も、ともに根本的に間違っている。いずれも、アートと政治の関係を言語の問題としてしかとらえていないからだ。そうではない。感情の論理というものをとらえなければならないのである。今私たちが直面しているような、日本近代史における重要な転回点であればなおさら、感情の論理を探究する活動としてのアートは、その重要性を増してくると思う。
そうした議論を明確にするために「炭坑節」を持ち出したのだった。しかし、またしても今回の記事では「炭坑節」について論じる余裕がなくなってしまった。このシリーズ、もう一回書きます。