ぼくは、「禅」というものがキライである。
いや、誤解を避けるためにより正確に言うなら、「禅」そのものがどうこうというより、「禅」的なるものをめぐって、(日本人・非日本人を問わず)多くの近代人が共有してきた欲望の原型といったものが、どうにも受けいれられない、というべきだろうか。
子供の頃ぼくを育ててくれた祖父は「禅」のファンであった。かれは奈良県にある吉野の心月院という禅寺の住職と懇意で、『禅の友』という雑誌も購読していた。それは小学校の頃には、学校に適応できず祖父の書斎に入り浸っていたぼくの愛読書でもあった。
そんなぼくが禅に抵抗感を持つようになったきっかけは、たぶん中学に入った頃、ある時祖父が、竜安寺のつくばいのことを教えてくれた時であると記憶する。それは、中心にある「口」という部首を共有することで、四隅に配された漢字の部首が「吾唯足るを知る」と読むことができるという、有名な石の手水鉢である。
なぜその話に抵抗感をもったかと言うと、その時、いかにも「ここは〈ホーー〉と感心する所だよ」みたいな趣向だと感じてしまい、とりわけその頃思春期の生意気な少年だったぼくは「ケッ」と思ったのではないだろうか、と想像する。
言い換えればそれは、「自足」を教えるために造られたものが、あまりにも人々の注目を前提しているように思われ、禅をめぐる哲学的文化に伴う、度しがたいスケベ根性のようなものを直観したためであった。
というわけで、ぼくは一休さん(一休宗純)を尊敬できない(アニメの小坊主も、室町時代のむさ苦しい本物も)。とりわけ、晩年に盲目の女(森女)と性愛生活を送ったことを、何か思想的に意味があるかのように語る言説は、受け入れられない。おジィが性愛に狂っても別にいいけど、それはただそれだけのことだと思う。
けれども、禅とある種の類似性を感じさせる古代ギリシアの犬儒派については、かなり異なった印象をもってきた。犬儒派も「自足」を説く思想である。しかし、シノペのディオゲネスが人前でマスターベーションをして「食欲もお腹をさするだけで満たされたらいいのに」と嘯いたというような伝承を読むと、度肝を抜かれた。
ディオゲネスは、たぶん今だったら臭くて側にも寄れないようなホームレスのおっさんだと思うが、彼の所行は、少なくとも「ここは〈ホーー〉と感心する所だよ」みたいな演出でないことだけは、はっきりしているからである。
「自足」とは、「現代社会において自足的生活がもつ意味」みたいな観念が頭をよぎった瞬間に「自足」ではなくなってしまう。しかしだからといって孤立しているわけではなく、人々に影響を与えうるものである。
『ダイアテキスト』8号「特集:スローネス」(京都芸術センター、2003年)で取材した医師の甲田光雄さんも、ある意味現代のディオゲネスとも言える人であった。かれは「生き物はそもそも食べなくても生きていける」と断言するのである。
何を根拠にそんなことを言うのかというと、マグマによる熱水が噴出する深海に棲む「チューブワーム」である。この生物には口も肛門もなく、体内にいる微生物が周囲の硫化水素やメタンから生成するエネルギーだけによって生きる。人間もいずれはこのようになる、と甲田さんは言うのだ。
ぼくは、人間がいずれそのようになるとは思わないし、それを目指すべきだとも思わない。けれども「自足」ということを考えるなら、少なくともディオゲネスあるいはチューブワームのことを想定しないといけないと思う。「自足」を掲げることで人々を感心させようとする欺瞞に対しては、つねに警戒しなければならないと考えるのである。