この文章は、昨日ある学生から「先生は『イジメ』についてどう思われますか?」と尋ねられたので書いている。それで考えてみたのだが、ぼくにとってそれは結局「非暴力」という問題に行き着かざるをえない。でも、問題をいきなり大きくする前に、社会問題としてのいわゆる「イジメ」については、何が言えるか考えてみた。
「イジメ」はひとつではない。だから一律に「イジメ」とはこうだと決めつけたり、こうすればいいと対処法を示したりすることはできない。少なくとも次の2つのタイプを区別する必要がある(もちろん、過度の単純化であることは承知の上で)。
(1)ひとつは、共同社会内部のイジメである。共同体の特定のメンバーが差別や暴力などの継続的な標的となるが、そのメンバーの異物性がある意味で必要とされており、異物であることを通して共同体に組み込まれているような場合である。
だからといって、そこで行使される暴力を倫理的に正当化することは絶対にできない(共同体的なイジメは本当に息苦しくおぞましいものである)。だがこの場合には、暴力には基本的にマイナスのフィードバックがかかっており、したがって自殺などのカタストロフィックな結果に至ることは、比較的少ない。
(2)そしてもうひとつは、共同社会が崩壊してゆく過程で発生するイジメであり、これが現代において本当に問題にされているイジメである。それは、集団の「インサイダー」たちの不安を顕在化し、際限なく増幅するものとして現れる。
「インサイダー」と言っても彼らが「インサイダー」であることを保証する共同体は崩壊しているのだから、本当は誰も安定したインサイダーなどではない。だからイジメの標的は、はっきりした異物性をもつ必要はなく、潜在的には誰もが標的になりうるのである。
その不安から逃避すべく「インサイダー」たちは任意に選ばれた標的を攻撃し、徹底的に排除することで、そのことによって自分自身が「『彼/彼女』ではない」ことを空しく確認しようとする。そこでの攻撃にはプラスのフィードバックがかかるので、暴力は無際限にエスカレートする。
けれども、不安から逃れるこの戦略は原理的に成功しない。たとえ、標的が自殺し(つまり世界そのものから排除され)ても、残された集団から不安が取り除かれることはない。集団は次なる標的を求めて動き始めるだけである。
ぼく自身は、タイプ(1)のイジメは小・中学校を通して、嫌というほど経験した。学校に上がるまで女性と老人ばかりの中で育ったので、男子の共同社会の行動様式をまったく習得しておらず、かなりはっきりした異物性をもっていたからである。ひどい時にはどうやって死のうかという妄想で何ヶ月も頭がいっぱいになった。
タイプ(1)のイジメ(加害者・被害者としてに関わらず)しか経験していない人は、現代のイジメ問題に対して、「逃げずに立ち向かえ」みたいなことを言いやすい。あるいは、加害者をより厳しく罰すれば解決する、などと考えやすい。「何とかなる」と思っている。しかし「何とかなっ」ていたのは個人の勇気や行動によるものではなく、共同体の自己調整機能が働いていただけなのである。
タイプ(2)のイジメは、集団がそうした調整機能を欠いていることから発生する。もちろん個人的な努力とか、加害者の制裁といったことでは絶対に解決できない。集団が共同体としての機能を失い、強い不安に充たされた状態にあることが根本的な原因だからである。
被害に遭っている人が救われる唯一の方法は、そうした状態にある集団から、とにかく逃げ出すことしかない。「逃げ出す」というと消極的に聞こえるかもしれないが、ぼくはこれこそが非暴力、つまり「暴力をみずから放棄する」ということであり、圧倒的な暴力の脅威に直面した人間がなしうる、最も積極的な行為であると思っている。
タイプ(2)のイジメの原因となっている不安は、特定の集団を越えて伝染してゆく。イジメによる自殺などの報道をニュースで観た人は思わず「そんなヒドいことをする子供たちは、被害者と同じ苦痛を味わえばいい」などと考える。ネット上でも「イジメ加害者の実名を公表せよ」といった「正義」を掲げる人々がおり、ぼくにイジメについての意見を聞いた学生は直接的にはそうした議論を目にしたからであった。
非暴力とは、暴力のそうした連鎖を断ち切るということである。それは必ずしも、仏教的な悟りを開いたり、トルストイやマハトマ・ガンディーの思想を学ぶといったことではない。また政治学的には、非暴力とはひとつの合理的選択であり、暴力において圧倒的に勝る相手を、最終的に屈服させる可能性を持つ戦略として説明できるが、非暴力の意味はそうした「弱者にとっての最終的武器」に尽きるわけでもない。
というのも、現在まさに暴力の脅威に曝されている当事者が非暴力を選択する動機は、それによって「最後には勝利する」ためではないと思うからである。そうではなくて、「力をみずから放棄する」ことそれ自体が、力を力によって制圧することよりも、比較にならないほど積極的な、重要な意味をもつ行為だという自覚が生れるためだろう。
こうした自覚の涵養、つまり非暴力の境域を知的に開拓するという目的に、なんらかの仕方で結びついているからこそ、学問も研究も最終的には意味をもつのだと信じている。端的に、それ以外考えられない。