語学(英語)が堪能で、グローバルな視点を備え、日本のために国際的に活躍するリーダーとなりうる人材を育てる、というようなことが、いま文部科学省が大学にいちばん求めている教育目標らしいのである。けれどもそんな「人材」は、たとえ育成できたとしても、まず人間的魅力が乏しいし、道徳的・人格的に尊敬できないし、だからあんまり関わり合いになりたくないし、そしてたぶん日本のためには働いてくれない。
だからそんなクズのような人間を育てるという目標を掲げるなど、「妄念」としか言いようかないのだが、しかしこれは自分の国の教育担当部局の方針であり、ただ悪口を言っているだけではどうにもならない。文科省の中には優秀な人もいることを個人的に知っているが、それにもかかわらずなぜ組織全体がこのような愚かな方向にしか動かないのかという理由を考えてみなければならない(役所や官僚だけを悪者にしておけばいいという構図も、もうとっくに賞味期限切れていると思うし)。
おそらくその淵源は、1970年代の「ゆとり教育」の提唱に遡る。日本の教育は「詰め込み式」で「知識偏重」だという批判である。さらにその背景には、戦前・戦中の軍国主義的教育(ぼくの母は女学校で「教育勅語」や天皇の系譜を暗唱できなければ帰してもらえなかった)に対する反省もあっただろう。国際化や情報化に対応できる人間を育てるには、もっと子供たちの個性を尊重しなければいけない、ということだ。その際、欧米(たとえば北欧)の学校もよくモデルとして参照されたりした。
子供たちの個性を尊重するという教育方針は、原理的には間違いではない。けれどもそれを実現するには、先生たちの個性をまず尊重しなければならない。個性を尊重されていない大人が、個性ある子供を育てることは不可能である。子供は大人を見て育つのだから、そんなの当たり前である。教室に「ゆとり」をもたらすには、まず職員室に「ゆとり」を実現しなければならないということだ。これが「ゆとり教育」の唯一の可能性だったのだが、そのことは勘案されず、現実には教科書を薄くし授業時間を減らすという見当外れな措置がとられた。
皮肉なことに、「ゆとり教育」がこのように教育政策として実現されていく一方で、現実には「偏差値」が教育の達成段階を示す基準として広く認知されていった。そして、偏差値というのはいつも「悪者」であった。教育批判は多くの場合、「人間は偏差値だけで測れるものではない」(「金八先生」)のような陳腐なクリシェに帰着させられてしまった。現実には多くの人が偏差値を信じ、それによって動いていたのだから、そうした「偏差値」批判はたんなるガス抜きであり自己欺瞞にしかならなかった。
この陳腐かつ無力な「妄念」が、今たとえば学術振興会の「リーディング大学院プログラム」のような構想として現実化している。この状況の背景にあるのは、国際規模の「偏差値」ともいえる、世界の大学ランキングである。ちょうど、予備校が勝手に出した偏差値別大学一覧表がいつの間にか客観的資料として一人歩きしはじめたように、もともとランキング好きなイギリスの調査機関などが勝手に出している資料(本質はギネスブックのようなものにすぎないのに)を、文部科学大臣や東大・京大の総長がマジで問題にしているという、なんともシュールな現実があるのだ。
「偏差値に還元されない知性」などというものがどこかに存在すると思うのは、「山のあなた」に幸せがあると空想するようなものである。どんなものでも偏差値に還元され、どんなものでもランキングされる。情報化が進行した今では、そうした数値的還元は昔よりもはるかに容易かつ高速になっている。当たり前のことであり、それだけのことである。問題は、「偏差値に還元されない知性」という夢想が、実は「みずから偏差値に還元してほしいと願うメンタリティ」と裏腹ではないのかということだ。そしてそうしたことすべては「知性的」な態度なのだろうか?ということだ。
といってもぼくは個人的には、少しも絶望などしていない。何も「改革」なんかしなくても、周囲の学生たちは(「偏差値教育」あるいは「ゆとり教育」にもかかわらず)たいへんに優秀であり、「国際的リーダーの養成」みたいな教育施策の欺瞞を見抜くに足るだけの、十分な知性を備えているからである。日本の教育に関して、もしも憂うべき問題があるとすれば、それは、「偏差値」(およびその補償的概念としての「ゆとり」)という呪縛から本当に解放される必要があるのは、子供や若者たちではなく、むしろ大人たちであるということだ。