(『有毒女子通信』8号の巻頭エッセイです。広報のために冒頭のみ公開していましたが、同誌8号はすでに売り切れで入手不可能ということもあり、全文を公開することにしました。最終段落にある「〈死なない〉ための唯一の方法、それは死を先取りすることである」は、同じ頃に書いたブログ記事「自愛について」と響き合うテーマですが、たぶん後者の方を先に書いたのだと思います。)
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「毒娘(Visha Kanya)」という話がある。インドのマウリア朝時代(紀元前317 - 180年頃?)に遡るとされる説話らしいが、現代でもインドの文学や映画などには登場する。毒娘とは、生まれながら暗殺者として育成される少女である。古代インド版「最終兵器彼女」とでも言うべきか。女の子に、赤ん坊の頃から少しずつ薄めた毒を与える。たいていの子はそれで死んでしまうが、中には毒に対して完全な耐性を持った子供が育つ(ありえないと思うけど)。その子が美しい娘に成長した頃には、彼女の体液は恐ろしい猛毒と化しており、ちょっとでもそれに触れた人間は即死する。その少女を首尾よく敵の王家に妻として嫁がせることができれば、新婚初夜が哀れな王子の最後の夜となる、というわけである。
昔、はじめてこの話を聞いたとき、「幸福な王子」とはまさにこのことかもしれないな、と思った(オスカー・ワイルドのあの説教くさい「幸福な王子」には辟易していたので)。生きながらえて王位を継承し、支配者としての重荷はもとより、いずれ避けがたい老死の苦しみをゆっくりと拷問のように味わわされるかわりに、若く美しい花嫁との初めての交わりの瞬間に死ねるとは、世にこれにまさる幸福があるだろうか! してみると毒娘とは、それを用いる策略家にとってはたしかに兵器に違いないが、それによって暗殺される犠牲者にとっては、至福をもたらす女神ともいえるような存在である。その王子は、本当にその娘が暗殺者だと気づかなかったのだろうか。実はすべてを知っていて受け入れたのではないだろうか、と疑いたくなるほどである。
さて、「体液は恐ろしい」というのが、この説話の教訓だろうか? それとも「女は恐ろしい」ということだろうか? ともに否。本当の教訓は、「生きることは恐ろしい」ということだ。なぜなら、生きることは究極的には「自分という体液の状態を維持すること」であり、しかも体液というのは、自分ではどうにもコントロールできないものだからである。毎日の食事において、また人や環境との交わりにおいて、いつ、どんな異物がそこに混入し、死に至る病へと発展するか分からない。この恐ろしさを受け入れるということが、とりもなおさず生きるということにほかならない。何か分からないものを「受け入れる」ことこそ、生き物の最も驚くべき能力ではないだろうか——ちょうど、あの王子が毒娘を受け入れたように。
「受け入れる」の反対が「頑張る」である。ふつうは「頑張る」の方が、苦難や抵抗をはねのけて生きることに結びつく態度だとされているかもしれない。なぜなら「頑張る」は積極的で改革を求める態度を意味するのに対し、「受け入れる」は受動的で体制順応的な諦念であるかのように思われているからである。しかし、これは誤って意味づけられた対立だ。「頑張る」とは、単に筋肉を緊張させることにすぎないのである。それに対して「受け入れる」とは筋肉を弛緩させることである。生命活動にとってはどちらも大切であり、どちらが積極的でどちらが消極的などという区別はない。ただひとつ確かなことは、弛緩は緊張よりも前にあるということ、「受け入れる」は「頑張る」よりも生命にとって、より根源的な態度だということである。
「頑張る」とは硬くなること、個体に近い状態になることである。それに対して「受け入れる」とは緩むこと、液体に近くなることだ。もしも死というものが、生物の身体の構造が緩み、自己と外界との境界が失われて宇宙的な物質の流れへと同化してゆくことだとすれば、死もまた「受け入れる」という作用の一側面である。「頑張る」行為として表象された生が、そうした弛緩・同化としての死に対してひたすら抵抗する活動であるのに対して、「受け入れる」行為としての生とは、いわば死を内部に抱きかかえた生である。そしてこちらの方は、頑張ること、硬くなることを拒んだりはしない。あの王子も、可愛い花嫁の前に一度は硬くなり、そして弛緩した。活動と死を連続した同じ生のプロセスとして理解するのが「受け入れる」ということである。
「…筋肉の緊張がなるべく少ない、力を抜いて解放された液体的な状態の感覚が、生きている人間のからだのあり方(動き)の基礎感覚であるべきだと私は考えている。」(野口三千三『原初生命体としての人間』p.20 三笠書房、1972年)人生を体液という観点から理解することは、人間がこれまで蓄積してきた世界観や人生観に、何か新しいものの見方を付け加えるということではない。むしろ反対に、これまで後生大事にしがみついてきた常識や通念を「捨てる」ということである。どのように力を入れるべきかではなく、「いかにして力を抜くか」ということを、野口三千三は考えた。力を抜くことによって、身体を骨と筋肉で出来た緊密な構造体という身体感覚を、ユラユラ揺れ動く液体の入った袋として理解するのである。そのことが、なぜそんなに重要なのだろうか?
言ってみればそれは「死なない」ためなのである。『死なないために』という著作もある美術家の荒川修作が、一昨年73歳で亡くなったのは、奇しくも大阪の国立国際美術館で「死なないための葬送」という彼の作品展が開かれている最中のことだった。荒川は死んだ。けれどもそんなことはどちらでもいい。彼の言っていた「死なない」という状態とは、生と死とを共に含みこむ新しい生を獲得することだからである。「死なない」ための唯一の方法、それは死を先取りすることである。誰もが自分の毒娘を受け入れることだ。生と死とは単純に対立しているのではなく、互いに密接に絡み合っている。ひたすら安全や延命に執着すると生は荒廃してゆく。死を先取りすることで「死なない」ようになることは、少しも観念的・抽象的な言葉遊びなどではない。むしろ徹底して唯物論的な態度である。人生を体液の流れとして理解するのは、そうした態度を最も明確に示すものだ。
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